【精読会報告】私たちが学習する理由 小室直樹『痛快!憲法学』③

全社に広がった「痛快!憲法学」の精読会

定期開催している「痛快!憲法学」の精読会。今週は過去最多の27名が参加しました。社内の会議室には入りきらない人数になったのでカフェスペースに机を並べ、ちょっと広すぎて集中できないかもしれないな…そんな不安もありつつのスタート。ですが時間が経つにつれ徐々に集中力が高まり、参加社員1人1人の「分かりたい」というエネルギーを感じる良い会になりました。

思いをことばにしていく人もいれば、自分の頭の中で一生懸命考えを巡らせている人もいる。知識を身につけるのではなく、それぞれが自分にとって大事な何かを見つけ出そうとしている、そんな空気が流れていたように思います。
今回以外も含めると全社員が「痛快!憲法学」の精読会に参加したことになります。1回4時間、半日かけて行っているこの取り組み。貴重な時間を使ってまで「痛快!憲法学」を学習する理由は何なのか、全社員に広がったこのタイミングで改めて考えてみました。

自分の中に存在する「正しさ」をを意識しているか

この本最大の特徴、効果は「ものの見方、考え方が変わる」ということ。今まで自分が見てきた社会というものが、本来は逆向きに見るべきものであって、正しい捉え方ができていないことこそが「生きづらさ」の原因にもつながってく、ということを示してくれています。とはいえ、今までの自分の価値観をひっくり返すことは簡単なことではありません。誰しも自分の中にある「正しさ」に沿って生きている、そう思うこと=それが正しいと思っています。自分ではそう意識していないかもしれないけれど、自分の思う正しさを揺るがされたくはない。だからこそ、それと反するものへの無関心、時には差別的な感情や拒絶を感じてしまうこともあるのです。

今年は特にそんな空気が漂っていたように思います。コロナウイルスによって日常が大きく変化し、不安を感じやすい状況の中、人によって捉え方、考え方が違うと分かってはいても、自分の基準と外れていることに対して過度に拒絶を感じる場面もありました。

矛盾だらけの「正しさ」

例えば「Gotoトラベルは使うけど、大人数で飲み会をしている人は許せない」だったり、「自分も外出はしているけれど、その写真を撮ってSNSにあげている人たちは苦しんでいる人に対して配慮が足りない」だったり…。その線引きは何なのかといわれると良く分からないけれど、おそらく様々な情報に触れて自分の中でなんとなくラインができている感じがします。そうしたときに、「私はそう思うから、そうじゃない人は間違っている」「人によって感覚は違うから気にしても仕方ない」とそのまま切り捨ててしまうことは簡単だけど、他人の考えよりもまずは自分の内面と向き合い、メカニズムとして捉える必要があるように思います。

自分の思う「正しさ」も自分にとって都合のいい部分だけを切り取ったものなのかもしれない、善人でいたい自分の思い込み、そうありたい人たちのつくる空気によって思わされているだけなのかもしれない…本当はどういう問題なんだろう?精読会に参加するようになってから、ものの見方を変えることを意識して一歩踏み込んで考えられるようになってきました。沸き上がった感情のままに流されるのではなく、なぜそう思ってしまうのか、本当に見るべきものは何なのか…一歩引いて考えようとするだけでも、冷静に、穏やかでいられるような気がします。

ものの見方、価値観を変えること

「痛快!憲法学」の前半部分で肝となるのが、近代資本主義、民主主義を生んだプロテスタンティズム、人間の運命は生まれたときからすべて神によって決められている、という「予定説」の考え方です。自分が考えることもすべて神の導き、神はすべてお見通し。自分の力で変えることなどできない。だとすると今、この感情が沸き上がっているのはなぜか、なぜ神は私にそう思わせているのか。自身の感情が、神からの問いや試練に感じることがあるのではないかと想像できます。その問いに向き合ったときにこそ、自分自身のものの見方、価値観を俯瞰し、それを書き換えるチャンスがあるのではないでしょうか。神の導きという補助線を得ることで、自分自身の思考の枠を超えて考え方を変えることができて、当然今までとは違う人間になっていく。誰かの考えが植えつけられる(洗脳)ではなく、自分自身の思考の探索によって変化し、超えていく。

日本だと宗教=洗脳というイメージがどうしてもあり、こういった話をしづらいと感じてしまいますが、むしろ全く何にも洗脳されていない人間なんていない。日本人はすでに「日本の空気」に洗脳されていることにも気づかずに宗教を異質なものとみているように思います。その状態にあることを自覚し、自らを縛る思い込みの枠を外すことこそが、宗教や新しいものの見方・考え方を学習する目的なのかもしれません。

なぜ私たちは学習をするのか

前回も書きましたが、私たちはキリスト教徒になりたいわけでもないし、宗教を作りたいわけでもない。会社として事業をしようとしています。どうすれば前に進めることができるか、近代という仕組みの中でどう戦っていくか。予定説とまではいかずとも、社会を見るときにも客観的に自分と切り離すのではなく、自分もそのメカニズムの中の一部として置いたまま全体を捉えられるようになることが重要に思います。「痛快!憲法学」を通して私たちはものの見方、考え方を変える手法を学習しています。自分が変わっていくことは無意識にまとっていた重い鎧がはがされていくようで、楽になることもあります。でもその一方で今までの自分の中に流れていた「正しさ」を真っ向から否定するように感じること、自分が差別し、拒絶していた方を新しい「正しさ」に書き換えなければならないことすらある。ずっと居心地のいい場所にとどまっていたい中で、その変換を自分の意思で行うことには大きなストレスを伴うし、近しい人との関係を変える可能性すらある。見たくない、考えたくないと拒否していたことに向き合わなければならないこともあると思います。

だからこそ参加する1人ひとりが「なぜ、私は今学習をしているのか」その動機を、意思をもっていないとただただ苦しい時間になってしまう。

私は、自分の中にある「正しさ」を書き換えてでもメカニズムと自分自身をつなげて仕事の意味、物語りをつくりたいと思っています。まだまだ自信も力もないけれど、目の前にある都合のいい「正しさ」に寄り縋っていくのではなく、自分で考えていける力を、そのエッセンスを学習し、現実で体現していきたい。「大丈夫、自分はうまくやれている」とごまかさなくてもよくなるように。考えてみると改めて、こんなに正直に誠実に1人ひとりが仕事、さらには自身の内面と向き合っている会社はなかなかないと思います。

どうして精読会に参加しているのか。これからも問い続けて、考え続けていきたいです。