ときには少し背のびもしながら。
はじめまして。2023年度内定者のやまもとです。
4年間の学生生活を過ごした京都から東京へ越してきて、はや1週間が過ぎました。初出勤の日が目前にまで迫っています。
あたらしい土地で、今まで知らずにきた社会制度や諸々の手続きに溺れそうになりつつも、いよいよ仕事が始まることは指折り数えて待つほどたのしみ。ですが、そう思えていることに我ながらおどろきを覚えています。
というのも私自身、はたらくことに対してずっとネガティブなイメージを拭えずにいたはずでした。そんな気持ちは気づけばすっかりなりを潜め、ソワソワ心待ちにしているなんて変わりよう。こんなふうに仕事のはじまりを待つことができるなんて、1年前は想像もしていませんでした。
一体、何がきっかけだったんだろう。私はなにをこんなにたのしみにしているんだろう。
就活を中心にこれまでを振り返りながら、そのわけを探ってみたいと思います。
「はたらくこと」は窮屈だ、と思っていた。
大学3回生の初夏。気持ちは追いつかないままに、卒業後の進路を決めるための準備が始まりました。
幸い、と言うのが適切かは分かりませんが、まずは「やりたいこと」よりも「できること」から訊いてくれるキャリア指導のおかげで、うんうんと頭を捻らせながらも、まずは自分の現状に目を向けることから始めていきました。
そうしていくうちに見えてきたのは、長いあいだ胸の内にあったわだかまり。当時の自分はこう書いていました。
「社会に出てはたらくことに、漠然と窮屈なイメージを抱いています。それは、例えば退勤時間になるまで与えられた仕事を淡々とこなしていくような、機械的な仕事のあり方を想像しているからかもしれない」。
会社という組織の中で、上位下達に与えられたタスクを淡々とこなしていき、生活をするために必要なお金を稼ぐこと。ただそれだけが、当時の私が持っていた仕事像でした。
ご飯をたべる、住まいを確保するなど、手放しがたいさまざまのためにはたらかなければならない。そんな、有無を言わさない絶対性があるようにみえる「はたらくこと」は、長らく「たのしさ」とは結びつくはずのないものでした。
仕事がたのしいってどういうこと?
ですが同じころ、そうした認識に疑問を持つようにもなりました。
大学進学を機に地元を出て住みはじめた京都。行く先々で、なんだかいきいきとはたらいている大人の人たちに出会うようになると、次第におや?と思い始めます。
仕事はただやらなきゃいけないこと。そう言ってしまえば、何とも味気のないことのようだけれど、本当にそれだけなら、なんでこの人たちはこんなにたのしそうなの?
私が思い込んでいただけで、「はたらくこと=窮屈」なわけではないのかも。
ですが、そうしたことを学生が実感をもって知るのは難しく。仕事の現場にお邪魔してみても、インターンに行ってみても、できるのは誰かがはたらいている姿をみることばかり。
仕事がたのしいってどういう感覚だろう。
依然、その答えを持っているわけではありません。ですが、その感覚を体感する機会をもらい、仕事はきっとたのしいと、私自身が思うことができたのが、コスパクリエーションのインターンでした。
「伝わる」ということが持つ力
昨夏に参加したインターンでは、参加者みんなで「暮らしに、芸術を。」というひとつのことばを囲み、このことばが持ちうる意味、のせうるメッセージを考え、話しあい、探っていくことに5日間のほとんどを費やしました。
印象的だったのは、ディスカッションに参加してくださっていた社員の方々も、設定された問いについて(それぞれに仮説を持っていたとしても)腑に落ちるこたえにはたどり着いておらず、「わからなさ」を持ったまま話をしていたこと。
だからでしょうか。インターン生が手探りながらも発言したことが、たしかに拾われて、咀嚼され、問いや同意そのほかのかたちで返答が返ってくる。社員の方から発せられることばと、学生から発せられることばは、ディスカッションの中で対等に響いているように感じました。
「わからないから、一緒に考えていこう。」
それはインターン期間中にじっさいに誰かの口から発せられた言葉ではなく、企画に参加したことで伝わった、と私が感じたメッセージのひとつでした。
「暮らしに、芸術を。」についてインターン生と一緒に考えていく、そのためにつくられたことがわかる企画の構造。発話されずとも、企画を媒介にして伝わるものがあった。その体験に、「商品はことば」ということばに込められた意味の一端を垣間見たような気がしました。
企画が意図を込めてつくられていることに気がついたときの、ひりつくような心地よい緊張を覚えています。そのとき、私はいち個人としてディスカッションの場に参加していながら、同時にひとつの目的をきっかけに誰かと足元が繋がったような一体感を感じたのでした。
当然、インターンで行ったことだけで、実際に社員として行う業務を体感できるわけではありません。でも、「企画」を通して思いが伝わる瞬間を実感したこと、伝わった思いに応えたいと感じたことが、気がつけば「商品はことば」に託されること・託すことを自分も考えたいという気持ちに変わっていたのでした。
「たのしみ」の所以は。
「たのしさ」とは、先がみえない不安のなかで、それでもこの先に何かがあるんじゃないか、あるはずだと、願いにも似た確信を頼りに歩を進めるような、ずっと苦しくてずっとどこかがたのしい、おもしろさにもちかい感覚です。それは、例えば友だちと遊んでいるときのような、無邪気な楽しさとはまた少し異なるもの。
前者のような「たのしさ」が、はたらくことのなかにあるだろう。そんな期待を、私はいま抱いているのだと思います。
社会人としてはたらいたことはないから、それがどういうことなのかは、これから知っていくけれど。でもぜったい、この会社ではたらく中で見出すことのできる「たのしさ」はある。そう思います。まずはそのために、がんばっていくぞ、という気持ちです。
同時に、私にとって、はたらくことは変わらず「しなければならないこと」です。いよいよ経済的にも自立しようという今、以前よりも実感を伴ってそう思います。でもやっぱり、それだけではなかった。
はたらくことを通して、誰かと足元を揃えて、一緒に問いにぶつかって、何かを考えて、話して、少しずつ納得を重ねていって。そうしていくなかにきっと発見がある。
はたらくことをたのしみだと思うようになるなんて、1年前には想像もつかなかったように、きっと今は思い描くことすらできない現実が、来年の春を生きている私にはみえていたりするんじゃないかなと。
今ですら定かではない、おぼろげながら感じている「はたらくこと」の意味も「たのしさ」の意味も、来年にはすっかり違うものになっているかもしれません。
いろんなことが変化していく、その可能性を予感させる、これからの日々が始まることが、今はとてもたのしみなのです。