会社の仕事は終わらない夏休みの宿題、自由研究のよう

会社の仕事は終わらない夏休みの宿題、自由研究のよう

毎朝、ものかき部のメンバー数名で朝礼を行っています。テーマと進行は持ち回り。テーマから自分の記憶を辿り、言葉を紡ぐ練習をしています。色んな話が聞けて、わたしも毎朝楽しみにしている時間。今日のテーマは「夏休みの宿題」でした。

わたしが思い出したのは、小学生のころの「自由研究」。これがとにかく嫌で嫌で仕方なかったことを覚えています。でも何がそんなに嫌だったのか?引っ張り出した記憶にことばに当てはめていくうちに、今の仕事や働き方にもつながるものが隠れているような気がしてきました。

子どものわたしが感じた不自由さと孤独感

自由研究の何がそんなに嫌だったのか。わたしの通っていた学校では自由といいつつも“理科の”自由研究と決まっていて、理科もあまり好きじゃないわたしにはピンとくるようなテーマがなかなか見つけられずに困っていました。世紀の大発見ができるなんてことは思ってない、とはいえ、よくある”あさがおの観察”や、結果の分かりきったメジャーな実験はやる気が起きず・・・。自由の名のもとに何かしら自分の手でテーマを見つけたいと思っていたけど、いつも最後までもがいて、結局中途半端なものになってしまったような、苦い記憶として残っています。

夏休みだから、授業のようにみんなでわいわい取り組むこともできない、家族や誰かに手伝ってもらうこともなんだかズルみたいで、1人孤独と共に取り組むものだと思っていたのも、嫌だなと思っていた理由の1つです。今では自由研究キットもたくさん売られていて、誰かに手伝ってもらうことに抵抗がない子どもが多いのでしょうか。ですが当時のわたしは親の手伝いすらもなんだか自分に負けたような感覚になっていました。誰かが加わると「自由」じゃなくなると思っていたのかもしれません。

会社の仕事も似ている気がする 自由への思い込み

こういう感覚って、仕事の中にもあるような気がします。学校を出て、社会という一見自由な世界にいるように見えても、選択肢を自分で見つけられない限りは自由だと感じられなかったり、人から与えられる問いや使命に対しては自分事に捉えて心を燃やすことができなかったり。自分で考えて行動せよ、主体的に動け、と言われて、「よし、やるぞ!」とは思っても、ほんとうの動機がない状態では、自由の範囲をどこからどこまでか決めてもらわないと、うまく動けず途方にくれてしまうのです。「自由と自分勝手は違う」と言うように、動機がない、無責任な状態では自由になることはできないのかもしれません。

孤独に対しても、周りと距離を置くことを、自由を得るための自立だと考えていたように思います。だけど一人ぼっちはさみしいから、中途半端になれ合ってみたりしてしまう。誰かと関わることが自分の自由を失うことだと、短絡的に考えていただけだったように思います。関わりの中で初めて自分が立ち上がってくるのに、その関わりにちゃんと向き合えていなかったのかもしれない。夏休みの自由研究と同じ、自由を得るための武器を得ようともせずに、一生懸命狭い世界をじたばたしていただけだったなあと、幼い頃の自分に気づかされました。

終わらない、夏休みの宿題

今のわたしは、子供のころに嫌で避け続けた自由研究という宿題に再び向き合わされているのかもしれません。休みが終われば、またみんな揃って一緒に授業、ということはない、ずっと続く宿題だらけの夏休み。

子供の自由研究なら、いきなり突拍子もないアイデアが浮かんで大発見ができることがあるのかもしれないけれど、大人はそうもいかない。「自由になるための学習」というように、自分を書き換えることでしか自由は得られない。責任も感じられない。自分自身の問いから研究を重ね、小さな発見を積み上げていくしかないのだと、そんなことが最近になってようやくわかるようになってきました。

自由研究を前に途方に暮れる小学生のわたしに「変わってないねえ」と言われる大人にならないように、ふたたび「自由研究」に向き合っていきたいと思ったのでした。