季節と感情のうつろいを大切にする働き方 秋に思うこと

「秋はなんとなく寂しい」そんな会話ができる場所

読み物を書き始めてから、自分自身の中で変化を感じる場面が度々あります。その1つが普段の暮らしの中で、季節の変化を敏感に感じ取るようになったこと。温度やにおい、湿度など五感で感じるわずかな変化を感じ取った時、しまい込んでいたはずの記憶がふいに蘇り、新しい発見と共に読み物が生まれることもあります。

わたしたちはそんな話を日常的にするようにしています。「秋になるとなんとなく寂しい気分になるんだよね…」なんてとりとめのないことでも、誰かに話すこと、誰かから聞くことで自分の感覚と記憶に新しい意味がもたらされることもあるのです。

秋の寂しさはどこから来るのか

最近、ものかき部のグループで「秋を感じる物事」について話していた時、大人になると忙しい日々の中で、短い秋はどうしても感覚として掴みづらく、視覚的に無理やり取り入れていただけだったかも…と思えてきました。

そもそも秋ってどんな“気分”だったっけ…小学生の頃、秋は運動会や遠足など行事が盛りだくさんの時期で楽しかった気がします。でも、ふと脳裏に浮かんだ光景は、写生大会をした神社の片隅。塗りかけのあまり出来の良くない絵と、パレットを傍らに置いて食べるお弁当…私にとっての秋はそんななんとなく寂しげなイメージなのです。

そういえば秋の歌として習った童謡も切ないメロディーのものが多いし、古典の短歌でも秋の歌はどこか寂しい印象がありました。そういう教育による意識づけもあるかもしれないですが、そもそも人間のメカニズムとして、日が短くなり気温の下がってくる秋は感傷的な気分になりやすいそう。季節の変化によって気分が変わっていくのは当然のこと。当たり前だけど「不要な感情」「振り回されたくないもの」として今までは気に留めないようにしていました。でも、その素直な感情、感性の中にこそ大切なものが隠れていると思うようになりました。

矛盾だらけの感情もことばにすること

月みれば ちぢにものこそ かなしけれわが身一つの 秋にはあらねど
月を見上げた時に次々と浮かびあがってくる寂しさ。自分だけのために秋がやってきたわけではないけれど…とセンチメンタルになりながらもどこか冷静な自分自身の様子を読んだ、百人一首の歌です。こういう気分になること、確かにある。

学生時代にはあまり感じなかったけれど、大人になって改めて古典の和歌に触れてみると、季節と自分自身の感情の描き方があまりに素直で純粋で、羨ましいとさえ思うようになりました。秋に感じる寂しさに素直に浸る。自然の中に自分の感情を委ねると、心の中にスッとことばが自然に湧き上がってくるように思います。技法やルールもあるでしょうが、こうやって自分のことばが出せるといいなあと思うのです。

寂しいけど、たのしい。切ないけど、心地いい。一見矛盾を感じてしまうような、現実的じゃない、理解してもらえるか分からないようなぐちゃぐちゃな感情も、素直に受け止めてあげると、自分でも気づかなかった新しい発見があるかもしれません。同じ季節に感じる感情でもその時の自分の状態や世の中の様子によっても変わっていく、うつろいつづけるもの。それをことばにして、その新しい発見を「私のような誰か」の心へ届けていくことが私たちの仕事なんだと改めて思えてきました。

季節のうつろいに自分自身を重ね合わせる、そんな仕事のあり方

現代に生きるわたしたち、とくに企業の中で働いていると、秋の「なんとなく寂しい」気持ちなんて「余計な感情」としてかき消そうとしてしまいます。世の中自体も、なるべく楽しい気分でいることが1番良いという空気があるように感じて、そう思えないと不安になってしまうのです。

確かに体や心が感じ取る感情や気分は仕事をする上では邪魔になることもあります。なるべく1年を通してフラットに整えていけたらといいなと思うし、コンディションのばらつきは抑えたい。だけど、ふと湧き上がった感情に蓋をしてしまうことは、新しい発見を見逃してしまう可能性もあるのです。わたしたちの仕事はそんな小さなゆらぎを捕まえることから広がっていきます。

五感を使って、目で、耳で、肌で、舌で、匂いで。自分の感じたことを素直にことばにする。遠い昔の人たちがやっていたように、そうやってことばを紡ぎつづけることで、誰かの心に届いてゆく。わたしたちは、この時代に、あえてそれを事業としてやっていこうとしています。うまくことばにできない感情も、もがいて、探索してぴったりくるものを探す。そんなことを繰り返しながら、時には秋の寂しさに素直に浸りながら、今日も読み物を書いています。