生きるちからをくれる”わからなさ”、を生きる

生きるちからをくれる”わからなさ”、を生きる

わたしたちの根源

私たちは日々何かしらの意識をして生きています。
今日何を食べるか 目の前の同僚を飲みに誘うか、一人で行くか
明日何を着て会社に行くか 今週の業務は何をどうやるか
目の前の板書を、白板にとるか、紙にとるか
私はなぜそう思ったのか なぜそう思った私は、ここにいるのか

突き詰めて 突き詰めていくと、ぽっかり中にアナポコが開いた”中空”が出現し(だが同時に、そこにはなんにもない)自分という実存存在の根拠を揺るがす・・・。暖流と寒流にモノジタイとして境目が無いように。自分という存在も徹底的に他者に影響されながら“意思しているように感じる”だけの存在。自分という意識も、ただ動物というイレモノの上に精神という妄想が乗っただけの、かすみを食うだけの、よくわからない存在に思えてきます。

生のわからなさ

そのわからなさというのは究極的には、生のわからなさ。生まれて、育って、死んでゆくことのわからなさ。日々抱え込む小さな選択も、それを選び取る自分自身の精神も、結局は足元おおきな疑問と矛盾の上に成り立っている。小さな目の前のわからなさは、自分を通過して足元にもぐりこんでいき、共通的無意識ともいえる地盤に到着する。

なぜチリになってしまうこの世の中で生きてゆかねばならぬのか?なぜ死にたくないのに死ぬのか?なぜ寝たいのに寝たくないのか?なぜなぜなぜなぜ・・・。そういうあるいみ宗教的な問いと、目の前の新聞や、自分がマイテーマとして探求する問いの絶対的な垣根はどこにあるのだろうか。死が強烈に意識されるほど生が輝く。自分が生きれば生きるほど世界の謎は深まっていく。そんなことを考えます。

分析アプローチでは、全体にたどり着かない

世界を分析していく密画化で、この世は「わかる」ものでもないと聞きます。原子を小さく小さく分割して、DNAを分析して、原子時計で“超”正確な時刻を調べて。ここまで科学が発展しても結局分かったことは「主観的にその場を生きている人によって、時間の流れ方は違う」・「わからないことがわかった」という、ある意味反法則的で、でも私たちの実感に忠実な実験結果。私たちが西洋的・分析的アプローチでたどり着けるのは99.99…%まで。どうしても、“そのもの”にたどり着くことは難しい。結局は部分に分析を加えた瞬間に変化するのが部分。掴んだ!と思ったら次の刹那には形が変わっているスクイーズのようなもの。だからこそ、全体を把握してそこに部分の分析を重ねていく。

論理?空? わたしたちの和洋折衷

論理というのはそういう暗くて深淵な不確定地盤の上に立っている城かもしれません。ロジックはキレが良くて、わからなさ、あいまいさを徹底排除して、強くて、強固で頑丈で信頼できる絶対的な守護塔に見える。でも実はそれの立脚し、”確実性”を担保している地盤は”わからなさ”というシャドー・・・。

だから仕事の話をしている中でふと、”人間の謎”みたいな深い問いかけにぐっと引き寄せられる時がある。日本人的な、禅とか仏教とかホーリズム、全体を全体のまま受け入れ納得する理解体系がそこに寄り沿う。それが自然で、わたしたちの和洋折衷なのかな。と思ったりします。

わからなさを苦としたとき、苦は悪か

たとえ判らなくても判ろうとすること。”求(ぐ)答(とう)”ではなく”求道(ぐどう)”。論理的に答えを求めては、生きることをコスパで考えては、なりません。すべてが“わかった!”ら、それは生きていると言えない気がするのです。仏になって悟りを開くと輪廻転生のループから外れられるのだと聞きます。煩悩の原因を消し込めば現世での悩みは露と消える、と。でもそれって生きて行く諸条件の否定なのではないか・・・?生きて行くことが苦を生み、無意味が生を生み出したのなら、苦だけを取り除こうというのはほとんど生を否定する作法。それは苦しくなくても、生きている実感は得られないのじゃないか?

わからなさと生きる

わたしたちの生のエネルギーの根本は”わからない” ”知りたい”。エントロピーに矛盾する宿命を背負うのが生命だとしたら、私たちを突き動かす最大のエネルギーは“人生の謎”にあり、各人の「気になる」「知りたい」「不思議だ」「どうしてだろう」という気持ち。その気持ちが寄り集まって、具体の場が唯一無二のものになる。その力が私たちを、読書会を、新聞を読む気力を、養ってくれます。私たちにとって大切なのは問いが立っていること。「不思議だ」「どんなメカニズムで動いてるんだろう」「どうやったらもっとこの会社は・社会をよくすることが出来るだろう」。

その“問い”がぶれていなければ、その動機が共感を呼び、ひとりがひとりを呼び、ふたりがふたりを呼ぶ。3人4人・・・と寄って束となったとき。一人ではできないことだってできる。そうなったとき、不可能なことなどないように思います。
書いていて勝手に元気になってきてしまいました。自分を縛り付けるような“わからなさ”が、いろんな現象を分析するエネルギーをくれる。なんだか、皮肉なようでいて素敵な事だと思ったのです。