【精読会報告】世界に正解を求めてはいけない 小室直樹『痛快!憲法学』①

精読会、今回のテーマは”近代メカニズム”

何度かコーポレートサイトでもご紹介しているプレコチリコのとりくみ、”精読会”。なかなか個々人では手が伸びない書籍や、社会メカニズムを俯瞰的な立場から見る本など様々な本が毎回のテーマ。参加者一人ひとりが音読しながら、リレー形式で解釈を交換し合う会は、今回新たなテーマに挑戦を始めました。

今回取り扱った本は『痛快!憲法学』(小室直樹著2001)(絶版。2006年に『日本人のための憲法原論』として単行本化、販売中。)憲法を条文解釈からだけでは無く、歴史的文脈からの成り立ちや、そもそも何のためにあるものなのか?といった視点から解説した書籍です。

歴史の偶然が産み落としたメカニズム、”ケンポー”

「ケンポー」という響きを聞いて思い出すのは”9条”とか”護憲”とか、学生の時の社会公民の授業の思い出。あまり生活に関係がないように思うのは社会人の常かもしれません。参加したみなさんも「憲法って全く考えたこともない」、「すっかり忘れました」という方も少なからず、かくいう私もその一人。この本を手に取るまで、なぜこういったものが私たちの生活にかかわってくるのか分からず憲法は死んでいる!と喝破するこの本に、”ほんとかしら”と疑ってかかってすらいたのです。

しかし読み進めながら解説を聞いたり他の人の解釈を取り入れているうちに、あたりまえで不変の真理だと思っていることも、長いスパンで見ると偶然の帰結でしかなかったという歴史が垣間見えてきます。

引き剥がされる思い込み

議会や国家は国民を守るために誕生した!のではなく、徴税や戦争のためであった・・・。

日本が明治憲法を作ったのも、半ば当時の列強に食い殺されないための苦肉の策。そもそも”平等”という概念自体が西洋の生んだ”神”の副産物であった・・・。

時折中世にまで遡ってダイナミックなスケールで語られる憲法論は、もはや「近代人類史」。今私たちが思っている当たり前も、”そう思わされている”気がしてくる。

日本人がやたらに欧米人にたいして劣等感を持たされているのも、対米隷従路線が揺らがないのも、”近代”という怪物が時代を覆ってしまった昨今の世界の宿命。「彼らが絶対正義なわけではなく、ケンカにめっぽう強かっただけなのよ」という解説には、そうだったのか!と世界がひっくり返り、自分の思い込みが相対化されます。

この世は思い込みで出来ている!

「こんな世界に誰がしたんだ!」と文句の一つも言いたくなるところですが、近代という時代は”大ボス”がいない世界線。誰かをトップとする意思表明によって一斉に動くような単純な仕組みではない。

メカニズムが綿密に絡み合い、相互に連関した生き物の様な有機体。この世はみんなの思い込みという名の共通幻想で出来上がっている。みんなの小さな意志は想像もつかないくらい雑多。でもどこかに機能的な美があって美しいのかもしれない、そんな想像が膨らみます。

こういった話を聞いているとどんどんと目の前の”あたりまえ”が崩壊してくる感覚を覚えます。いま”答え”だと思っていたメカニズムは流れが大きいがために確固たる地盤に見えるだけで、”時代”という視点で見たときにはひとつの思い込みでしかないのだ・・・。絶対的な正義とか、絶対真理が存在しえない。すがれるものが何もない。

「じゃあいったい何を信じて生きていったらいいんだ!」そんな正解を求める声が漏れだしそうです。

自分の外に正解を探しに行くことは世界を見失うこと

「世界は思い込みでできている」という事実を逆にとらえることが出来たなら・・・「世界に正解はない」、という命題が引き出されるのも論理的に当然の帰結かもしれません。だとしたらこの世界のどこかに正解があると思って捜しに行く作法。ともすると、それは危険な行動になります。思い込みでできているだけの世界における“正解”とは砂漠に浮かぶ呼び水のようなもの。環境がそのように見せているだけで、“モノジタイ”は存在しない。そこにはない水を捜して永遠にさまよう・・・。そんなことになりかねません。

この世に正解はない

各々の思い込みからできているこの世界に”絶対的な正解”は存在しえません。あっちが変わればこっちが変わる・・・。まさに「真理はテーブルの上に載らない」。

世界に正解を求めない。でも私たちは自分たちの答えを作っていかなくてはならない・・・。むしろ正解を定義するのは自分自身であり、メカニズムに対抗できるのは唯一、自分がメカニズム思考で当たり前を刷新し続ける事のみである・・・

そんなときに基準にすべきこと。正解として他者を頼ることが出来ない時に見つめるべきものが「論理一貫性と現実妥当性」だといいます。

”正解”に引き比べるのは論理一貫性と妥当性

論理的に、今まで貫いてきた行動、理念と矛盾していないか?(論理一貫性)
現実世界に照らして道理が通らないことがないか?みんなの思い込みの世界に照らして、「ありきたりだけど今まで無かったもの」になっているか?(現実妥当性)

世界との関わりも持っているからこそ、外部との接続に矛盾が生じないか?という検討も必要。でもそこで一番大切なのは、意志のちから。

 

自分を刷新しながら、意思をもって生きる

正解がない(大ボスが居ない)世界において、唯一絶対の判断基準は、自分。

〇であるとか、×であるとかを決めるのも、自分。

一人一人が自分の思い込みを刷新しながら自分だけの正解を築いていくことが、近代人がメカニズムに流されず生きていくため、礎とすべき作法。「憲法」というテーマからちょっと遠い、でもどこかで通底している結論にたどり着いた精読会。

終わったとはぐったりだけれど、次はどんな世界が見れるのだろう。思い出すたびに認識が書き換わるまた精読会。また、次回が楽しみです。