よどみない言葉を紡ごうとすること
よどみない言葉を紡ごうとすること
”商品はことば” と掲げた私たちプレコチリコ。自分が思っていること、感じていること、想像していることを淀みなく言葉にできることを目指して、日々アタマの中のストックを取り出したり並び替えてみたりし続けています。それは記事はもちろんのこと、実際に議論を交わしたり、他愛ない会話の中でも同じこと。例えば会議でも「〇〇と△△の間って感じ・・・なんだろう」みたいにことばの幅を探ることも、日々の暮らしの中で、「この感情って・・・」と立ち止まることも多々あります。
カチッとはまる、ことば
そうして引き出された言葉が、自分の思いと”カチッとはまる”ことばに出会ったときには、まさに見つけた!といった感じ。“モノジタイ”は何も変わっていないし、当てはめた言葉も昔からそこにあったはずのものなのに、こんなにうれしいのはなぜでしょう。
一方でそれが見つかるまではどうにも座りが悪い感じで、居心地が良くありません。「あぁ~ これが言いたいんだけどなあぁ・・・ なんだろうこれは もやもやする・・・あれだよ、あれ、あれ。」そんな時には思わず天を仰いでしまいます。
文章を書いているときには歩き回ってみたり、カフェに行って濃いめのコーヒーを淹れて見たり。そんなことをしている内にふとアイディアが出れば儲けもの。基本的に何度でも書き直すことが出来る よみもの の基本は“書いては消し、書いては消し”の繰り返しです。
オフィスで紡ぐ、ことば
ことばを選ぶのは、よみものを書く時だけではありません。
たとえば、リアルタイムでことば選びをしながら会話をしているとき。片方で言葉を探しながら、片方で話を組み立てていく。
頭の中ではなんとなく整理できているように感じたことでも、ふらりと自分の外の出た瞬間に雲散霧消してしまうことがあるようです。そういう時に限ってたくさんの人を前にしていたりして、恥ずかしいやら情けないやらで、「上手く言わなきゃ 言葉にしなきゃ」とプレッシャーすら感じたりします。
ですが、そこであえてぐっとこらえ、手あかのついた表現に妥協せず 本当に思うところを突き詰めてみる。詰まりながらでも、順序が多少倒立したりしても。たとえ時間がかかってもそうやって紡ぎだされた言葉のほうが、納得感をもって私のぜんぶを表してくれる。そんな気がしています。
わかりやすくて理路整然とした言葉は、何物にも代えがたい大切なもの。ですがその歯切れの良さにつられて、自分の言葉が出て来なくなってしまっては本末転倒です。
ことば探しに終わりはない
プレコチリコでも、対話をしていて思いがうまく言葉にならない時、できる限り自分の言葉で肚落ちできるよう時間をとっています。
淀みなく理路整然と話せたら評価が高い、とか、だれも知らないような難しい知識を披露したら偉い。そう思いがちですが、必ずしもそれだけがすべて、という訳でもありません。
むしろ、しっくりとなじみのある言葉を探し続けること。
”これでいっか”とことば探しが怠惰になる自分に気が付くことが出来ること。その努力のほうが、私たちにとっては忘れてはならないこと。私たちの姿勢を正してくれる。
こう考えると、”ことば探し”に終わりが見えなくなってきます。でも、それでいいのです。世界をことばで捉えた次の瞬間、捉えた世界は変化してしまいます。厳密には”捉える”なんてことはできっこないのでしょう。
でも、だからこそ「あえて探す」ことにロマンがあるのかもしれない。
自分が世界とつながるために、ことばを探す。
そう思います。