分かりやすい合言葉はなくてもいい 理念を「空白」にする理由

小~中学生の頃、クラスで学級目標なるものを決める風習がありました。目標といいつつも、「元気が1番、1組」みたいな、クラスの心を1つにするための「合言葉」として新年度にみんなで案を出し合って多数決で決めていたように記憶しています。

あの頃は特に意識はしていなかったけれど、いまだに覚えている言葉もある位なので子どもの頃のわたしにとって何らかのインパクトはあったのだと思います。かといって、じゃあその時のクラスがどうだったかとか、運動会や合唱コンクールで優勝したかどうかといわれると、それはまったく思い出せないのです・・・。

言葉と意味がつながらないということ

言葉そのものを覚えることはできても、その言葉がもつ意味、紐づく記憶がつながらないということはよくあると思います。心を一つにするための言葉は、覚えることが目的ではないはずなのに。便利な合言葉を作ってしまったがゆえに、1人1人の考える機会、意味をつくることを奪ってしまうことがあるのかもしれません。

わたしたちプレコチリコのいわゆる「理念」は空白になっています。あえて言葉をおかないと決めているのです。それも似たような理由からです。

学級目標でも会社理念でも、最初に考えた時の言葉の意味と、それから時間が経つ中で色々な経験をしていくとその言葉のもつ意味は変わっていくはずです。意味が変わることで、やっぱり別の言葉の方がふさわしいと思うかもしれない。ただ盲目的に同じ言葉を使い続けるだけで、振り返ることをしなければその言葉は色あせてしまうのだと思います。もちろんずっと色あせず輝き続けるような力強い言葉もあるのかもしれませんが、わたしたちは変わっていくことを前提として、空白のままにすることとしたのです。

合言葉に頼りすぎるわたしたち

ラグビー日本代表チームスローガンの「ONE TEAM」、コロナウイルスの感染拡大防止のために発信された「STAY HOME」などなど。時代を象徴するような分かりやすい、使いやすい言葉が合言葉のように使われ、好まれます。(社会に浸透するということは好んで使う人が多いということだと思っています)

分かりやすい一方で、その言葉の意味を自由に想像する余地を与えないように感じることもあります。「そう思うべき」というような感情とセットで受け入れなければいけないような気がしてしまうのです。それはマスコミの影響が大きいと思いますが、ブームという波にのまれて、「言葉の意味を考える」というわたしたちの自由を奪って、言葉自体がはりぼての一体感をつくるための足枷になっているように感じます。それが、その言葉本来の意味を変えてしまうような場合もあります。

たとえば「ONE TEAM」。思いのこもった、素敵な言葉です。その時の熱い思い出、感動とともにこの言葉を思い出す人も多くいると思います。
(私はあまりラグビーに詳しくないのでそこまで語れないのですが・・・)一方で流行に振り回されて、意味を考えずに使いたがる人たちも現れます。そうやって使う人は自ら言葉を足枷にかえて偽物の一体感に浸っているようにも見えてしまいます。

そこをきっかけに深く入っていく人もいると思うので、そういう人たちがいいとか悪いとかいう話ではないのですが、意味を持って使っている人と一緒にするにはどうも違和感があるので、「にわかファン」などというまた新たなジャンルをつくってすみ分けているのかなあ、などと考えたりもします。

大事な言葉は分かりづらく

商品のキャッチコピーなどの言葉は、分かりやすく伝わるものであるべきですが、わたしたちがチームとして1つになるために使う言葉、会社を表す言葉は誰にとっても分かりやすい必要はないと思っています。あえて理念は空白で置いていますが、それ以外に共有する言葉も、日本語という共通言語ではあるけれど、安易に便利で使いやすい言葉に頼ってしまうとそれぞれの考える余地がなくなってしまうかもしれない、そうであってはいけないと考えます。1人1人が考え、それぞれ意味を持った言葉を使いたい、面倒かもしれないけれど、それが1つになるための1番の近道だと思うのです。

「商品はことば」という言葉のように、一見なんだかわかるようで、わからない。だから考えてしまう、考え続けてしまう、そんな「振り返りたくなる言葉」を大切にしたいと思っています。

自分の考えや気持ちを表すために使う「言葉」ですが、意味を考えずに使ってしまうと、言葉に対して自分を合わせなくてはいけなくなるように感じます。分かりやすい便利な合言葉ではなく、分かりづらくてもほんとうに自分の心に残る、ちゃんと意味とつながっている言葉を使うほうが心から通じ合える、そう信じています。