透明なクレヨン

透明なクレヨン

1カ月経って。

1カ月前、私の卒業した大学から、何人かがインターンに来てくれていました。
私は、なにを伝えられるのかもよく分からないまま、学生のみんなと、とにかくたくさん話しました。1年前の自分に会うようなつもりで。なるたけ私のことばで。

私がインターンに関わらせてもらった4日間、なんども「ことば」について学生のみんなと話しました。
そこから1カ月経った今、私が「ことば」について考えていることを書いてみようと思います。(なんだかもっと、ずっと長い時が経ったような気分でいますが。)

 

 

出会い

数週間前、新しくできた本屋に行った帰り、道中にあった雑貨屋さんに何気なく足を踏み入れました。店内をざーっと歩いていて、ふと目に留まったのが「透明なクレヨン」でした。

箱には、クレヨンで描かれた2人の子供と虹と花と雲の絵に「透明なクレヨン」というロゴ。イラストと字面だけでは、なんだかさっぱり分かりませんでした。でも、確実に私の心は踊っていて、手に取って裏面に記載されているであろう説明を読みたくなりました。
ただ、箱に手を伸ばして、ふともったいないな、と思い、その場を離れました。

「透明なクレヨン」ってどんなものだろう。例えば描いても透明だけど、光をあてるとその色に光るとか、クレヨンのどの色も見た目は透明でプラスチックみたいな感じだけど描くと色がでるとか、それで手が汚れなかったらいいなとか。
そんなふうに考えていたら、ふと、自分が幼いころ、クレヨンが嫌いだったことを思い出しました。それは下に書いてあったものが塗るとすぐ見えなくなるし、逆に絵具ははじかれるから重ねられないし、紙の上が不便になる気がして遠ざけていました。
そこで、もう一度「透明なクレヨン」のところに戻って、箱の裏をみると、塗り絵の線を隠さないクレヨンと書いてあって、ふーんそっか、と思って、そのときはそれでお店をあとにしました。

 

でも、それから毎日、買いもしなかったのに「透明なクレヨン」が頭を離れませんでした。なにをしていても、思い出す。今の自分にとって重要なのかもしれないと思いつつ、靄がかかったままでいました。
あの感じはなんだったのだろう、なに惹きつけられて、それがこんなに持続力をもっているってなんなのだろう。「透明なクレヨン」はなんの力をもっているんだろう。

 

 

人を動かす「ことば」

そんな「透明なクレヨン」のことが、一昨日にした会話のなかで今日になってもおもしろいなと思う「ことば」があり、それを考えた瞬間、いろいろと繋がってみえて気ました。

「透明なクレヨン」は万人が知っている単語を掛け合わせて分かるようで分からない「ことば」になり、けれどそのクレヨン(商品)を言い当てるうえで、最も端的で適切な言葉だったのだと思います。
それは隠喩の妙に似ていて、一昨日の会話でおもしろかったのは、まさに隠喩的な表現でした。
そういえば千葉雅也さんが

「隠喩こそが、最もわからないものなのに、最もわかる感じを与える。これが占いや呪術の原理でもあり、また政治の言葉の秘密であり、言葉の恐るべき力で、それは人間の言語運用能力の根本に再帰的に関わる言語運用だからそうなのだと思う。隠喩性を排した情報的言明では、人は動かせない。」

とおっしゃっていたことを思い出しました。
だから、私は「透明なクレヨン」にこんなにも動かされていたのか、と。

隠喩はひとつ、人を動かすことばとして、わかりやすい表現方法ではあるけれど、必ずしも隠喩という方法をとらずとも、同じような現象を(強弱はあれど)つくりだすことは可能なのだと思っています。それが千葉さんが書かれている「隠喩性」なのではないかと。
言語の先にある、世界をみせてくれる「ことば」には、なんだか勝手に惹かれてしまうようで、そんな「ことば」を話す人は、なんだかおもしろいし、いっしょに話していてずっと楽しい。
この会社には、そういう人がいて、だから私はここにいたいのだと改めて思いました。

 

 

そして「商品」も同じように、「もの」と「ことば」を通じて世界をみせてくれる。これから、そんな商品をつくりたい、つくらねばと思います。

そのためにも、私のなかにある「ことば」の海に水を増やしつづけようと思っています。「商品はことば」にふさわしくあれるように。