何かを作ること_自己との対話_苦しみに勝たずして勝つ。

社内で、こんな話をよく耳にします。
「文章を書いていると救われる(元気になる)」「何かモノを作っていると自然と心地よくなってくる」

疑う気持ちもありましたが実際に自分で書いてみると、確かに元気になってくるのです。なにも、書き始め1文字目から元気になるということではありません。むしろ「うまくかけた!」という状況は稀で、自分の書いている内容と 思っていることの剥離があるとどうにも気持ちが悪くなります。
それでも自分の思いをひたすらに書き連ねることができたときは自分の心が救われたような、すっと身が軽くなったような感覚がするのです。誰かに読んでもらっても、その身の入り方の度合いはわかるようで、変に取り繕って自分を隠した文章よりもよほど裸一貫でぶつかった物のほうがよほど人気だったりもします。

自分の思いを表現すると元気になる。これはどういう事なのでしょうか。
小説家で『博士の愛した数式』などの著作がある小川洋子さんは、こんなことを仰っています。
「人は、生きていく上で難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面したときに、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業、必ずやっていると思うんです。」(『生きるとは、自分の物語をつくること』(小川洋子・河合隼雄 新潮文庫))

「自分の心の形に合うように」という言葉がそのまま説明しているかもしれません。自分のストックしてきた記憶を今の自分のために書き換えると言ってもよいと思います。
確かに、子供のころ悔しくて堪らなかった経験などを今振り返ると、「なんだ、そんなことだったのか」と納得することもあるのは、時間軸を超えて経験を書き換えているという事でしょう。

もしかすると、自身の過去について読み物を書いていくことは、いちいち同じことを思い出しているようで、実は追体験をし、自分の受け入れやすいように記憶を整え、結果的に自分を治療しているのかもしれない。そんなことを思います

小説家の村上春樹さんが、あるインタビューの中で「小説家というのは、暗い世界の闇の中へ進んで入っていき、得体の知れない手触りのものを取り上げ、明るい世界へ引っ張り出してくるのです」といった趣旨のことを述べている。小説を作るということはひどく恐ろしいことであり、「その暗いところから戻ってこられなくなるかもしてない」という恐怖に常に晒されているのだと。

よく村上氏が「井戸を掘る」という表現を使いますが、これも自分の過去を整理することと非常に近い共通点を感じます。一つの事象をずっと掘っていくと、そこで全くつながるはずのない壁を越えてつながる。それは判りあうはずのない両者をつなぐ唯一の救済であると。

この両者の意見を統括すると、こういうことになるのでしょうか

人間は意識下ではなかなか手の届きづらい無意識を抱えて生きていて、彼らは平常時であれば悪さはしないものの、ふとしたタイミングに意識へ影響してその人を苦しめ始める。その無意識を意識的に取り出し、吟味し、整え、そっと戻してやるという行為。それこそが自己との対話であり、小説家の言う、“物語る“ということなのかもしれない。

人間が自分自身で抱えきれないような重荷を背負ったとき、その人が“折れて”しまうのか、もしくはもう一度、自分を受け入れてやり直すことができるのか。一般的に“強さ”と標ぼうされるその力は、自分の過去を如何に抑え込むか、ではなく、“如何に捉えなおすか”にかかっているという事なのかもしれません。