浅いけど強い国アメリカ・深いけど弱い国ニッポン
「浅い」、つまりフィクションで突き進む国=アメリカ
(ちょっと古いが)アメリカの人気テレビ番組『SUITSスーツ』をネットフリクスで見ている。軽快なテンポが好きだが、でも、そこで感じることを思い切って表現すると「浅いなあ」である。でも強い。アメリカとは「生きる意味」という側面では非常に「浅い」国であり、世俗で「生き残る」という意味では非常に「強い」国である。それをひしひしと感じる。
アメリカは、17世紀に生きたジョン・ロックの社会契約説という「仮説=モデル」に忠実に作られた国である。人間の自然状態、つまり、自然人という「原始モデル」を抽象して、「初めに契約ありき」で理念的に建設していった世界初・歴史上も初の社会である。他のすべての国が、気が付いたらそこに「国らしきもの」があったところに「近代国家の枠組み」を当てはめたのに対し、唯一アメリカだけは、概念だけで国を作り上げた。もともとそこに住んでいたインディアンたちの「歴史」はなかったことにしてしまい、「アメリカ」という人口国家をゼロから作ったのである。
「生きる意味」は全て、キリスト教の神が巻き取ってしまう。「どうして私は生まれてきたのか。」「人間はどこからきてどこに向かうのか。」「人間とはいったいなんなのだろうか」・・・そうした「問い」にはキリスト教がすべて答えてくれる。また、一般的には、その答えのみが「正しい」とされる社会である。プロテスタントの牧師がすべてを知っている(はず)。そういう国である。
そこまで行かなくとも、ちょっと人生に悩んだら、セラピストが対応してくれる。あなたの精神を要素還元的に分析して解決策を処方してくれる。アメリカにかかれば人間の心もすべて分析可能・分解可能である。
ことほどさようにアメリカは、日常の問題の議論を現世に集中させているゆえに、迷った時の結論がとても速い。人間存在の謎には全部、キリスト教プロテスタンティズムが明快に答えてくれる。現世の問題は「科学的問題解決アプローチ」という「仮説=フィクション」によってガシガシ物事が進められるのである。「政教分離」もまたフィクションである。
建国から150年あまり、経済、そして、軍事が世界一に上り詰め、ほかの国はそれに従わざるを得なくなった。形式論理的に「生きる意味(=宗教)」を現世から切り離し、普段は「生き残る(=政治)」ことだけを表面的に考えられたからこそアメリカは世界一ケンカが強い国になったのである。
「真理」、つまり「空(くう)」の論理で永遠モラトリアムの国=日本
一方、翻ってわがニッポン。「生きる意味」を考える方法を一神教の「神」に与えてもらっていないので、敗戦後「天皇教」が抜き取られて以降、放心状態を長らく続けている。東西南北・前後左右がない状態である。
もともと日本という土地は、他国の侵略をたまたま地政学的に逃れたからという理由で、地場的な宗教観が発達した地域ではあった。その教義はあらゆるものに神は宿る、という多神教的宗教観。朝日に手を合わせ、道端にお地蔵さんを作ってはまた手を合わせる。「神様、私の人生をよろしくお願いします」。基本、他責=被害者意識が心を支配する。
日本は、地政学的な偶然で、世界で唯一の「世界宗教」真空地帯となった。ゆえに社会を人間の手で作ろうという動機がそもそもない”おっとりした国”となったのである。資本主義・民主主義・科学的思考に必須の「作為の契機」が不在であることが、もはや動かすことのできない社会的・構造的事実である。
私は、日本は、アメリカよりははるかに「深い」国であると思う(語弊は承知)。「生きる意味」を自らの手で探求しようと多くの国民が思っていると思う。「天皇教」なき戦後に生きる世代では、それもなかなか叶わなくはなってしまったが、それでもアメリカに比べれば決して「浅い」とは言えないと思う。人生の真理は、本来、「迷って当然」だからである。ブッダもその昔、人間には決してわかりえないことがあると言った(無記)。それを追求し適確に位置付けることで生まれたのが「悟り」である。世界の法則を「わかる」ことでブッダは仏になり心の平安を手に入れたのだろう。キリスト教国、特に、プロテスタントの国よりも仏教・儒教ベースの日本の方が「生きる意味」という点では「深い」思想を有するのである。日常の社会関係に宗教が入り込んでいる。
しかし、である。だからこそ、現世では今や、惨敗の状態である。
1990年前後の冷静崩壊以降、経済は低迷し、いまや社内失業が溢れ、生産性はアメリカの3分の2でしかない。一人当たりGDPは、お隣り韓国に既に抜かれ、OECD加盟国ではメキシコだけに辛うじて勝つどん尻の一つ上である。コロナ禍でも、国の政治は全く機能せずこの先経済は奈落の底に沈むしかない。唯一の望みは、国の経済の20%に満たない中小・零細・中堅企業の起業家精神であるが、マクロで見れば焼け石に水なのかもしれない。官僚が支配する非近代資本主義的経済は、官僚の直営天下り先企業3000社を筆頭に、ほぼすべての大企業にまで浸潤し、今や80%がアントレプレナーシップなき計画経済である。そこにお金を動かすエンジンはない。現世を動かす気力のない国、それが今のニッポンの自画像である。
そんな日本にも論理はある。それは、仏教でいう「空(くう)」の論理である。「空」とは、平たく言えば(ちょっと下品だが)「理屈と鼻くそはどこにでもつく」「付けられる」、ということである。まったく都合よく、その場その場で理屈をこしらえるというのが「空」の論理。人間にもし「意識」というものがなかったならば、この世は「空」の論理で貫かれていたはずである。自然現象をそのまま人間社会にも当てはめるエントロピー社会。秋の稲穂の如くに風に揺られるのみ。人間はいずれ土に帰るのだ・・・。動物というより植物に近い・・・。しかし、だからこそ、一神教社会よりむしろ日常は真理・摂理には近い。それがアメリカよりも「深い」感じを私たちに与えてくれる。
日本人はこう思っている。じたばたしても仕方ない。みっともないマネはやめよう。沈むときは沈むんだ・・・人間だれしもいずれ死ぬんだから・・・
これでアメリカに勝てるはずがない。。。
「どちらがいいのか」_それは「問い」そのものが間違っている
アメリカ社会と日本社会、果たして、どちらがいいのだろうか。結論から先取りすると、それは、その「問い」そのものが間違っている。「問い」そのものがまた、日本的なのである。「神様に答えを聞いてみたい」そうした動機が「どちらがいいのですか?」という問いを自らに生む。作為の契機を基本とするプロテスタントにはそうした「問い」そのものがない。
現世の経済活動にはすこぶる適応的だが、「生きる意味」という点では「浅い」と言わざるを得ないアメリカ型の思考方法と、それよりは「深い」かもしれないが現世での経済活動には、特に、21世紀型の複雑化した近代社会にはまったく対応力がない日本型思考方法と、どう折り合いをつければいいのだろうか。
産業革命以降、この問いに向き合ってきたのが哲学者や思想家・学者(人文科学)と言われる人々である。「近代社会」は乗り越えられるのか。近代社会は人々を幸せにするのか。変化させるとしたらどうしたらいいのか。私たち一人一人は、どう考え行動すればいいのか・・・
人口に膾炙した「答え」はもちろん出ていない。それはいまだに手探りである。「人間はお金だけで生きるにあらず」、そんなこと誰にだってわかる。でも、お金がないと生きる意味を考える余裕すらない。そのお金は誰かがくれればいいのだけど、そうした座席にもどうやら「資格」がありそうだ。みな公には言えないようにコソコソと自分の座席の確保に忙しいようだが、そんなことでいいのか、とふと思ったりもする・・・近代はなかなか生きづらい。「そんなこと言われても、今日、生きなきゃいけないし・・・」だろう。
あなたがもしそれ(近代社会)を受け入れるなら、二つをバランスさせるしかない
よく、お金なんて欲しくありません、という若い人に出会うことがあるが、それはさすがに偽善であろう。僅かでも社会とかかわる以上、お金がゼロでは生きていけない。だから普通、お金は欲しい、となる。ないとさすがに困る、それが嘘偽りのない心。でも、出来れば、誰かに寄りかかって浅ましく生きるのも避けたい。できれば自分の足で立つ凛とした姿勢を崩したくはない。人間とはそういう生き物だろう。それは実は、アメリカだろうと日本だろうと変わらない。それぞれのお国事情はあるものの、人間である以上、凛として生きたいと思うはずである。その心を近代社会というメカニズムは、どう回収してくれるのか。
実は、論理的に考えていくと、「自身の内面にストレスを抱える」か、「自分以外の他者に自分のストレスを押しつける」以外、近代社会に対処する方法はない。「生きること」と「生き残る」ことを両立させるストレスを、なきものとする方法は存在しない。少なくとも産業革命以降(近代とはイコール資本主義であるゆえ産業革命以降とは近代社会以降という意味)、それにユートピア的な答えを与えた人間はいない。哲学者にせよ、宗教家・思想家にせよ、現代の社会科学者にせよ、必ず、人間自身の努力を要請する。「近代」を前提にすると、「寝てても幸せになれる方法」、それは存在しないのである。
この『CEOの内省』そのもののテーマが、まさにこの「近代社会への対応」であるので、ここでその話を明言することは控えたい(ちょっと長くなるというのもある・命題としては答えにくいというのもある)。しかし、これだけは言える。「会社」という「器」ですら、近代の片一方、お金儲けだけを考えていたのでは、今のアノミー日本では社内に不幸を増産するだけである、と。それか、元気な自称「アメリカ人」に刹那的に頼るしか手はない。
でも、こうも言える。この「近代問題」を考えることは、私たち全員の使命であると。もしかしたら宿命なのかもしれないが、それでも避けて通ることは許されないのだと思う。そうしなければ、この人生は暇でしかなくなってしまう。近代を無邪気に受け入れるだけでは、「生き残る」ことを近代メカニズムが自動的に解消してくれる以上、人生は暇でしかなくなる理屈である。「生きる意味」は日常の喧騒と共に自動的に消え失せる。(空洞の埋め合わせに子供や孫をペット化する人が増える)
近代問題(「生き残る」と「生きる意味」のバランス)に取り組もうとしない毎日は、こと近代においては「暇(ひま)=退屈(たいくつ)」と同義になるだろう。「毎日が日曜日」で、今日やることを人に教えてもらうことになる。それだけは言えそうである。