日本における「右・左」

日本における「右・左」

右とは「守ろうとする立場」、左とは「変えようとする立場」なのだが・・・

いわゆる「右翼」とか、「左翼」とかの話である。

アメリカを中心に考えるとすると、「右」とは「自由」を「守ろうとする立場」のことを指す。プロテスタンティズム的精神に端を発し、フランス革命やアメリカ独立の精神に発露した「自由」の理想である。個人の自由こそが善。それを脅かすものは絶対廃除。それがアメリカの「右」であり建国の精神でもある。政治的には共和党がこちらの思想を代弁するとされている。これに対し「左」は、この右の「自由」を「守ろうとする立場」を「ちょっと行き過ぎ」だから「変えよう」と考える。それは理想かもしれないが、それだとあまりに落ちぶれる人が出る。「自由」と言いながら勝手をしすぎる人も出る。だから、若干の法律と規制が必要。理想である「自由」を若干調整する秩序を求める。こちらが「左」、民主党的なるものである。

ヨーロッパはちょうどアメリカと逆さまになる。現実の社会には代々積み上げられた「英知」がある。歴史的な遺産である。理想的な社会を実現するためには、その「英知」から考えること。つまり先人たちの「英知」を「守ろうとする立場」。それがヨーロッパの「右」である。それに対し、革新するんだ!(伝統=既得権益を破壊し「自由」を求める)というのが「左」である。

アメリカとヨーロッパは真逆であるのがわかるだろうか。

 

歴史的な経緯は18世紀後半のフランス革命に遡る。この時、フランス人民は「自由」のために王様の首をはねた。しかし、やってきたのは「自由」な社会ではなくロベスピエールによる強権的な独裁であった。王様の首をはねて自由を手にした人民は、ただの無法者になり下がり、力で秩序を回復するしか方法がなくなったのである。自由を手にした人民は、「自由」のために「秩序」を必要とした。人間社会の皮肉である。「自由」と「秩序」はそう簡単には折り合わない。

 

ヨーロッパにとってアメリカ的思想は幼いと映る。人間の本質を知らない子供のたわごとと映る。18世紀、イギリスの政治家エドモンド・バークは、フランス革命の様子を見て、右や左をきれいに分けるというよりも、それを包摂する「保守」という概念を訴えた。それは「自由」か「革新」か、という単純な図式で思考停止するのではなく、現実的・漸進的発展を期す。メカニズム思考をベースにした仮説検証的態度といえる徹底したリアリズム(実際人)である。人類が積み重ねた歴史的「英知」を参照し現実の課題に向き合っていく。自由と秩序をバランスさせながら、少しずつ進む。私たちひとりひとりが学習しながら、成長しながら・・・その速度に合わせながら、と。人間の世界とはそういうものである。「右」か「左」か、という図式を考えるとき、その底流にあるバーク的「保守」の視点を思い出すべきである。それは先人たちの英知を参照して、「右(守るべき)」か、「左(変えるべき)」かをテストを繰り返しながら時間をかけて進む方法論である。(安倍総理や菅総理のいう「保守」ではない。ドラッカーが言うところのマーケティング&イノベーションである。)

「右」とか「左」の議論は、ヨーロッパとアメリカを作った「プロテスタントたちの葛藤の歴史」からくるものである。まずはその図式を理解したい。

 

戦後の日本は「右」でも「左」でもない。「保守」すべきものもない。

戦後の日本は悲惨である。アメリカ的なるものも、ヨーロッパ的なるものも理解できず、「右」も「左」も単なる狂信者に成り下がる。世界史的にみると、「右」や「左」を語る時、そこには暗に前提が置かれていることに気が付く。「自由(米の右、欧州の左)か秩序(欧州の右、米の左)か?」と問うとき、そこには大きな前提が想定されている。それが形而上学的な宗教性である。これが現世・世俗に方向感覚を与えてくれる。方向感覚が与えられるので「右」とか「左」を語れるのである。バーク的「保守」も議論できる。

その地域、民族が歴史的に積み重ねた遺産(英知)は何か?それを明確に意識して初めて、「右」とか「左」の議論が始まるのである・・・

その前提となる座標軸(遺産である英知を整理し方向感覚を与えたもの)が戦後日本にはないのである。ゆえに「右」とか「左」とかの議論に意味はない。宇宙空間に放り出されて漂う中でなんとか助かりたいともがくとき、いきなり「右」か「左」かを考えても仕方ないだろう。その前に、まず、太陽の位置とか地球の位置とかを探すに違いない。それを基準に右か左か上か下かを考えるだろう。「右」も「左」も暗に「ある基準」を前提にする。戦後日本にはこの前提そのものがない。

その前提とは戦前は「天皇教」であった。軍部の暴走を許したという過去はある。しかし、たとえ問題があったとしても、座標が「ある」と「ない」は、天地の差である。座標そのものに問題があったとしても、「あれば」議論になる。「なければ」議論すらできない理屈である。

もちろんアメリカの占領政策がこれを廃棄した。しかし、もう75年である。

すでにアメリカのせいではない。私たち日本人のせいである。

 

東西南北・前後左右がない国

宇宙の例を思い浮かべればわかりやすいか。人間には方向感覚を決めるべき座標が必要である。座標とは秩序であり制約であるが、秩序(制約)があるから自由を求める。そこに基準がなければ、人間は一時も考えることができない。議論することすらできない。「完全な自由」は、本質的に人間の求めるものではないのである。

方向感覚がないと人間は鬱になる。生とは「秩序」現象であることを知るべきである。自由=無秩序は、本質的に「死」を意味する。エントロピー(=動的平衡)はいずれ土に帰る運命である。人間の生はランダムになることを善しとしない。そういう存在ではない。人間の集団には、「仰ぎ見る天」と「踏みしめるべき台地」、そして、「必ず東から昇る太陽」が絶対に必要なのである。

 

戦後日本は、アメリカに天皇教を略奪されて「東西南北・前後左右」がなくなってしまった。それが今も続く困難の源である。「右」や「左」を論じる前に、ことばで価値を打ち立てる必要がある。「始まり」と「終わり」がある、方向感覚のはっきりした「物語り」をつくる努力こそ必要である。戦後日本は、議論すら出来ない国になってしまっているのである。まずはそれを自覚したい。

 

日本の場合「右翼」も「左翼」もマスターベーションでしかない

日本の「いわゆる右翼」は、「日本的」と思しき実態に執着する「ストーカー」でしかない。桜がきれい。能や歌舞伎が日本の伝統。日本語や日本人らしい立ち居振る舞いをこそ残すべきだ、と何かの対象物に執着する。一方「いわゆる左翼」は人間の本性でしかない「ケガレ」をやたらと排除したがるただの不安症候群である。通学路にラブホテルを置くな。児童ポルノは絶対反対。やくざや娼婦の存在など論外・・・日本の左翼はただの「潔癖症」である。

日本の場合、「いわゆる自称右翼」も「いわゆる自称左翼」も「すがりつける」対象物を必死で探すマスターベーションでしかない。自分の内面ががらんどうで不安で仕方ないから、自分の内面以外にすがりつけるなにかを探す。それは、「神様」でも「理屈」でもなんでもいい。「みんながなかなか否定できないこと」であればその賞味期限が伸びるから、単に都合がいいだけである。

これをフロイトは「フェティシズム」といったが、マルクス的にいうと「自己疎外」である。「フェティシズム」とは「偶像崇拝」と同型の、「なにかにすがりつく」自己満足(ストーカー)でしかない。すがりつく対象物の良し悪しの前に自分の動機をこそ問うべきである。社会のことなんか考えてないのである。必死なのは、自分の不安を埋めることのみである。関心は自分の内面のみに向く。端的に自己満足である。これが日本人が思想的なモノ・宗教的なモノに感じる「気持ちの悪さ」の源になっている。そばにいる人が「宗教フェチ」だったら、誰だって気持ち悪いだろう。日本の右翼も左翼も、この「宗教フェチ」でしかない。だから、気持ち悪いのである。これを称してマスターベーション野郎という。(言い方を変えてもやっぱりキモチワルイ)

本来の「宗教的なるもの」は偶像崇拝をこそ否定する。フェティシズム、自己疎外を最も嫌う。何かにすがりつくのではなく、自らの内面をこそ頼りにする。なにかへの依存ではなく、自立である。弱さではなく強さである。醜さではなく美しさである。さもしさ・浅ましさではなく、立派さ・凛とする態度である。

 

底が抜けていることに気が付け!

日本は底が抜けているのである。戦後一貫して底が抜けている。その事実に気が付かない輩が、右だ左だと騒いでいるだけである。自分の内面の空洞を埋めようとして、他者に迷惑をかけるだけの卑怯者でしかない。

戦後日本に必要なのは、この「底」を形成する物語りである。「右」か「左」かの議論はそのあとである。

戦後の終身雇用や年功序列も、この「底抜け構造」が招来した必然であった。内面の空洞(不安)を何かで埋める必要が生じた。戦後の日本の特殊な雇用形態が、安心・安全物語りという「宗教」を作り出した。そして、資本主義が腐っていった。そこから派生した「専業主婦」という立場も、「底抜け構造」の結果でしかない。「宗教」なので働かないことを堂々と正当化できる。そして、自分と向き合うことを免除され続けてきた。立派に生きることから次第に遠ざかり、安易に生き残ることに慣れきってしまった。

日本には「フェチ野郎」か「タダ乗り野郎」しかいないのか・・・

今や日本は経済成長を達成した。いやもう30年前の話である。今は、経済的には中進国に位置する。しかし、それでも「生き残る」ことに関して不安は少ない。もういい加減、「生きる」ための「底」の製造に着手する時である。

 

「以前的課題」が人間に方向感覚とエネルギーを与える

方向感覚を失った人間は、そのあたりに浮遊するしかない。その精神は枯渇するしかすべがない。そして、都合のいい理屈にしがみ付く。毎日が日曜日のようにフワフワしているから、くだらない、しかし、刺激だけはくれる動画やテレビ番組で空洞を埋めるしかすべがない。埋めなければ不安が自らを襲う。一時も落ち着いていられない。

 

「人間とは動物と超人のあいだに渡された一本の綱である」

ニーチェの慧眼である。

「動物」から「超人」へ綱を渡るエネルギーは、超越的な物語りが供給してくれる。損得勘定という動物的欲望を相対化し、人間として美しく生きるエネルギーは、自立しようとする内面が生み出す。

「自由」と「秩序」は矛盾する。しかし、その矛盾を引き受けるとき人は初めて自立する。その矛盾が苦しいからといって、どちらかに逃げるとき、人はすでに何かに依存しているのである。現代社会ではそれは「理屈」であることが多い。環境保護とか、人権擁護とか、戦争反対とか、子育てとか。すべてマスターベーションである。(最近はSDGsが新たな偶像になってきたようだ。困ったものだ・・・)

「正しい概念」は人間から自立を奪うことがある。とりわけ「今ここ日本」ではそうである。問うべきは、その概念の正しさより前に自らの動機である。そうしないときれいな理念はすべて自己満足の供給源に成り下がる。「フェティシズム=自己疎外」のメカニズムを理解せよ。(『自殺論』のデュルケームは「社会的事実」といった)

 

戦後日本に「右」や「左」を語る資格はない。環境保護や人権問題を語る資格もないのである。

 

考えるべきは底が抜けていること。東西南北・前後左右。そうした基準を意識する英知をこそ学ぶべきである。

わたしたち日本人が問うべきは、「動機善なりや私心なかりしか」。どこまで行っても自らの動機である。対象物の「正義らしさ」ではないのである。

 

安易な理屈で自分を欺いてはいけない。

「なぜ、それに興味があるのか」

その動機をこそ、考えるべきである。

今の日本では、「右」も「左」も自分を欺くネタである。