知識人と実際人、近代におけるその役割

一番多い、「会社」という組織で働く実際人

知識人と実際人の関係を問う。あまり聞かない議論である。政治家と官僚の関係や、国民と政治家の関係を論じた、マックスウェーバーの議論は有名であるが、知識人と実際人の関係について論じたものは、ドラッカーが指摘している以外、ほとんど聞いたことがない。しかし、私は経営者であり、この国の一番多くの人々は会社で働いている。論壇の議論が偏っている。だから、あえて取り上げたい。

 

知識人と実際人とは?

知識人とは、学者・評論家・ジャーナリスト・宗教家・コンサルタントなどのことを指す。実際人とは、事業会社において、毎日、実際に組織を動かし、スケジュールに追われている、トップ・ミドルのマネジャーのことである。

実際人は知識人の研究からそのエネルギーをもらう。エネルギーをもらった実際人が、経済的なイノベーションを起こし、その稼ぎで知識人の研究を支える。社会全体でそういう関係が成り立つのが、本来、近代社会が期待するメカニズムである。

定義を敷衍して裏側から見てみると、知識人とは、自身の生活の糧を直接的には稼いでいない人ということになる。ゆえに、外資系経営コンサルのような人々は、知識人には数えない。現在のNHKや民放に雇用される社員ジャーナリストも知識人ではない。提灯持ちとして政府委員会に属するような学者も知識人ではないということになる。

実際人はどうか。端的に、業績を、十分条件ではなく、必要条件としていることがその条件ということになる。目的は社会正義、利益は制約条件である場合に限る。そうした、ジレンマに立ち向かうものだけが、近代において本物のマネジャーと呼ばれる資格がある。ゆえに、近代の資本制生産システムに掉さすもののみが、経営者・マネジャーの役割を果たしているということになる。無邪気に業績だけを追うものはマネジメントではない。

これが論理的帰結である。

 

しかし、現実は・・・

しかし、現実は惨憺たる結果である。これを社会学では、ポスト・トゥルース現象というそうだ。日本語にあえて訳すと「真実のあと」ということになろうか。知識人も実際人も、その社会メカニズム的役割りを顧みることなく、自身の座席争いに邁進する姿を称してこう呼ぶようになった。要は、自身の出世のために仕事をする姿のことである。社会正義など、どこ吹く風。さもしい、浅ましい姿が浮かび上がる。

でも実際、学者だって、政府からの研究費が削られて、生活するために学会でのポジションを獲得しなくちゃならないんだよ。会社だって、給料を払うために、やりたくない仕事だってやらなきゃいけないこともある。資金繰りは待ったなしなんだよ。マスコミだって、スポンサーの広告費がなくなったら倒産してしまう。売上の7割が広告収入なんだから。宗教家ですら、親の遺産を引き継がなくちゃ大損だ。税金で国に巻き上げられるくらいなら、そりゃ相続するさ。外資系コンサルだって、社長が望むことを提供しているだけなんだ。ニーズに応えているだけでしかない。皆、生活がある。悪いのは俺じゃない。私じゃない・・・。

すべてもっともである。でも、これでは、社会全体のメカニズムは沈む。皆が部分を最適化しようと全力を挙げればあげるほど、船全体は沈むのである。ポスト・トゥルースの時代とは、かくも巨大なジレンマを孕む。

 

現代の金持ちは社会を救えるほどの金持ちじゃない

金持ちが何とかすればいいじゃないか、という声も聞こえそうである。しかし、貧乏人が金持ちを責めたところで始まらない。近代の金持ちは、中世のそれほど巨大な金を持たない。富裕層が束になれば救えるほど、この近代社会は小さくないのである。巨大なヘッジファンドや、上場企業の経営者を思い浮かべるかもしれないが、その実、運用しているのは他人のお金である。近代の最大の資本家は、私たちの年金や健康保険のプールでしかない。どこかに大ボスがいて、この偏ったシステムを操っているわけではないのである。ジョージ・ソロスですら投資しているのは他人のお金だし、ソフトバンクの孫さんだって、裏側にはサウジアラビアのオイルマネーが控えている。みな、近代社会のエージェントに過ぎない。

 

革命ではどうしようもない

近代社会に革命は似合わない。それは歴史が証明している。社会主義革命も、全体主義戦争も、その思いは純粋だったのかもしれないが、多くの人々を苦しめ、殺しただけで終わってしまった。カードゲーム『大貧民』で、「3」を4枚集め、ルールをひっくり返すのは快感だが、現実社会ではやってはいけない。革命家の自己満足のために多くの人が死んでいった歴史を忘れるべきではない。フランス革命後の、ロベスピエールによる強権政治を忘れてはいけない。その時、英国の政治家エドモンド・バークは何と言ったか。保守本流の理念は、あくまで、仮説検証でしかないのである。急進派は現実的ではない。地味でも少しずつ改善していくのである。ドラッカーの言う、マーケティングとイノベーションの原理である。

 

社会をシステムで捉え自分の手の届く範囲のことを頑張る

社会を原因・結果の、単純線で考えてはいけない。それでは部分最適になってしまう。自分だけよければいい、ということになってしまう。そうではなく、全体を全体のまま、メカニズムとして捉えるのである。目の前にある現象の原因を、短絡的に目に入る出来事に結び付けてはいけない。人間には所詮、全体は見えないのである。しかも、近代社会は、今に至り、とてつもなく巨大で複雑なネット―ワーク&システムと化してしまった。その実態は、地球全体を覆うほどの、巨大な何層にも重なる織物の如くである。しかも、結び目は、メビウスの輪のようにひねられている。まったく単純ではないのである。

 

間に合わないのかもしれないが・・・

もしかしたら、もう間に合わないのかもしれない。近代社会はこのまま、映画『マトリクス』のように、システムが個別の人間を飲み込んでしまい、主役が逆転してしまうのかもしれない。われわれ人間は、もはや、いわれたプログラムを遂行するだけの働きアリの集団になってしまうのかもしれない。感情など不要だという人も増えている。振り回されるくらいならないほうがましだという。こうして自身の好きな食べ物も『ぐるなび』に聞くことになる。わずかに残った消費者としての意思さえ放棄し始めている・・・

出来ることはないのだろうか?周囲の友人が、みな、無気力になっていくのをなにもしないで眺めているだけなのか?いや、自分自身が、無気力になってエネルギーを失っていくのを、待っているだけなのか。また月曜日が来て、意思もなく、仕事をもらいにオフィスに行くだけなのか。皆が上役の指示を待っている。それが実は、システムの指示であるということを知らされずに。

答えはないのかもしれない。ドラッカーはこうした近代の構造的な問題に対処すべく「マネジメント」なる体系を構想した。知識人、実際人の関係についても、その文脈での論述である。私も基本、ドラッカーの議論に則っている。しかし、ドラッカーのマネジメントは、知識人にも実際人にも、あまり知られてはいない。その内容が難しく、せいぜい『もしドラ』が流行る程度である。

しかし、『もしドラ』は100万部も売れたそうである。その内容はともかく、ドラッカーに興味がある人はそれだけいるのかもしれない、とも思う。悲観する必要はないのかもしれない。

 

実際人は現場で頑張る

わたしは実際人である。この社会に一番多く存在する、会社という組織で働く実際人である。実際人として、今日も、社会的正義と業績のジレンマの間で踏ん張ろうと思う。この組織も、プレコのブランドも、近代へのアンチテーゼなのだということを胸に刻み・・・

知識人と実際人。その関係をわざわざ問うことはなかなかない。しかし、実際人として、心ある知識人の方々の議論を無視することはできないと思うし、創業以来そう思ってきた。今日も、その理想と業績のはざまで闘うとしようか。少しの胃の痛みに、生きているという実感をもらいながら・・・