日本の会社の経営理念が「なんだか座りが悪い」理由

日本の会社の経営理念が「なんだか座りが悪い」理由

日本とアメリカ、社会事情の根本的な違い

日本の会社の経営理念は総じて座りが悪い。なぜだろうか。それは日本とアメリカの社会の構成が根本的に異なることに起因する。経営理念そのものというより社会の側にそれは存在する。

アメリカの場合、やはり社会の構造的基盤はキリスト教である。宗教性が薄れたとはいえ、今だ人口の80%がキリスト教を何らかの形で信じている。しかもプロテスタント。資本主義や民主主義を生んだプロテスタンティズムの国が「アメリカというもの」のカタチである。

プロテスタントたちは、予定説というものをそのエートスにする。予定説とは簡単に言うと「最後の審判で救われるか否かはすでに生まれる前から神に予定されている」という教義である。15,6世紀宗教改革時代のルターやカルヴァンがカトリック教会の腐敗に対して「原点に戻れ」と広めた教えである。ヨーロッパはそれによって長い宗教戦争の時代を経験するが、一方、名誉革命、フランス革命、巡り巡ってアメリカを建国した。その精神はいまだアメリカの憲法に色濃く反映されている。日本と異なり、アメリカ一般大衆で憲法を知らない人は稀である。

アメリカ憲法の修正条項第一条「表現の自由」や、今だ銃を手離そうとしないことの根拠となっている修正第二条「武装権」は17世紀のジョン・ロックの社会契約論という思想から脈々と続くアメリカの心である。アメリカは「理念」から国を作り、その上に会社を乗っけているのである。アメリカの会社は、生まれた時から1階部分は建築済み。経営理念を考える場合、1階部分の上に、2階を乗っけるだけでいい。これが日本の会社との決定的な違いである。

(ちなみにヨーロッパ先進国はアメリカとは180度違うエドモンド・バーク的な意味での「保守」というものを1階部分の理念とする。アメリカの「保守」はヨーロッパ先進国の「革新」に相当する。戦後日本には、そのどちらもない。)

 

日本の場合は、明治維新で「民主主義と資本主義の土台となる宗教性(アメリカで言うプロテスタンティズム)」を、天皇を中心に作り上げた。明治期には今に残る多くのベンチャー企業が生まれている。この時は、渋沢栄一を待つまでもなく、理念に迷う余地はあまりなかったのである。『論語と算盤』以前的問題はクリアされていたのである。つまり社会全体の理念はしっかりしていた。アメリカ同様、会社は、2階部分を作ればよかった。

しかし、敗戦後、日本ではこの一階部分がすっぽり抜け落ちる。アメリカの占領政策の方針で、日本からは天皇教が一掃された。そして、制度だけアメリカ型民主主義・資本主義が導入される。それは21世紀になっても変わっていない。

 

アメリカは目的合理のみ、日本はそれだけだと宙に浮く

日本の会社の経営理念は、一階部分を空洞にしたまま二階をいきなり建築しているようなものである。それが日本の会社の経営理念に違和感を覚える理由である。日本の会社は戦後、いきなりハンディキャップを背負わされたようなものなのである。急性アノミーが社会を襲った。今もこの問題は放置されたままである。

でも、「だから」ということもできるのだろうが、日本の経営者はそれでも逆境を跳ね返した。京セラや松下電器など今に残る世界企業も出現した。アメリカ人の何倍も考える必要に迫られたからこそ、経営者の質も高くなったのではないか。また、ワンマン経営者が目立つようにもなる。みな已むに已まれぬ工夫で乗り切っている。経営合理化協会なる存在もこの文脈の中である。

しかし、通常は、経営理念を考える際、経営者は苦しむことになるだろう。アメリカ発の経営書は基本、役に立たないのである。いきなり二階から立てるように書かれた建築のための書物など欠陥ものでなくてなんだろう。

これに気が付けるかどうか。

それが日本の経営者に問われている。

 

日本の会社に求められる「マーケティング以前」

日本人には、生きるためのエンジンが「損得」以外にはない。それを埋めるのが一階部分であるが、それが戦後抜け落ちた。ゆえに、日本の会社は「経営理念」そのものに一階部分と二階部分を同時に作る必要がある。

だからこそ、経営理念を作るには、スキルを超えた哲学が求められる。

いくらMBAで優秀な成績を収めようが、ハーバード大学に留学しようが関係ないだろう。現場での経験からくる違和感を、懸命にことばに変えることでしかこの難問はクリアできない。いわゆる「哲学書」にもヒントはあるが答えはない。これは「戦後の日本の会社」だけの問題である。

業績の土台は基本、マーケティング&イノベーションである。それは世界共通である(日本の場合、利権ビジネスが8割を超えるというデータもあるが)。ゆえに、メカニズム思考と勇気を磨けば突破できる。しかし、それだけでは、トップによる剛腕経営で、創業者一代で会社を売却するしか道がない。人材を育て上げる長期経営は原理的に困難となる。第二の京セラや松下電器は生まれようがない。

 

そもそも「近代」という時代は巨大な「前提」を必要とする。アメリカ社会ではあまりも当たり前で意識すらされていないようだが、資本主義、民主主義にはもともと「それ以前的な」課題が横たわる。

それが宗教性である。

しかも、キリスト教プロテスタンティズムという特殊な構造をもつ宗教性である。

それは端的に「生き方」に関する問題である。構造は「現世拒否」。だから、仏教やカトリック、イスラム教、儒教では代替えできないのである。明治期の日本では、それを伊藤博文の慧眼で埋め合わせた。天皇に神の座に座っていただくことで突貫工事を行ったのである。

その宗教性は結果的に、人々に「意思」を植え付ける。自分の天職がなんなのか各人が考え抜くように仕向けてしまう。行動は勤勉になる。そして、正直になる。

マーケティングは、この精神性を前提に組まれたメカニズムである。だから日本には「マーケティング以前」が必要なのである。

一階部分の宗教性(形而上学性)。二階部分のマーケティング&イノベーション課題。ふたつ合わせて一人前の「経営理念」となる。

 

以前的問題が抜けている日本社会、会社に埋められるのか?

一階部分の「マーケティング以前」は、座席争いのレールからドロップアウトした時に初めて見える何かである。どうして自分はこんなに不幸なのだろう。自分だけどうして。この社会は不公平じゃないか。そうして若い時は親を恨み、社会を妬む。

この「恨みつらみ」を「断念」できた時、いくら考えても埒があかないこの日本社会のメカニズムに宿る「絶望」を、骨の髄から理解できた時、すべきことは見えてくる。

徹底的に論理的に、戦後日本社会が抱える困難を理解することしかないだろう。メカニズム思考を徹底的に社会に応用し、結果、大きな絶望を味わうしかすべはない。その論理的「絶望」を経験した時、あなたはどう生きるのか。その手順である。

 

プロテスタンティズムは結果、人々を英雄的行動に駆り立てる。つまり、人間を英雄にするメカニズムをどう作るか、が「マーケティング以前」的な問題である。これが埋まらない限り、日本の会社の経営理念から「座りの悪さ」はなくならない。アメリカにもヨーロッパにも、他の新興国にも一切ない、日本だけの困難である。日本の経営者のチャレンジポイントである。