「理念」とは何か?
「理念がある」とはどういうことか
経営理念とか、組織理念とか、政治理念とか、ひとが何かをやろうと企てるとき、そこには必ず「理念」なるものが求められる。
しかし、なぜ?
そして、理念とはそもそも何か?
創業以来、取り組んできたこの巨大な問いに答えたい。
わたしは「理念」というものを、はじめ、会社をやっているから「この組織のために設定しなければならいもの」として捉えていた。そして、さんざん考えた。しかし、わかったことは、会社だけを見ていては「理念」なるものを理解することは不可能である、という真実だった。
中世の時代(西洋では宗教改革以前、日本では江戸時代の頃まで)には、「神=この世ならざるもの」がまだそこいらじゅうに存在していた。神と共に人々の生活はあった。ゆえに「理念」なるものは必要なかったのである。歩けば誰しもぶつかる、それほど日常的に普通に存在していたものである。それは基本、宗教とか信仰と呼ばれていた。しかし、ニーチェのことばを待つまでもなく、近代が明けることで、「神は死んだ」のである。近代合理性や科学的態度という計算可能性を重んじる規範意識が社会から宗教性を略奪する。次第に、宗教や神は、うさん臭いモノとして人々から遠ざけられるようになっていったのである。そして、逆に、理念の必要性が浮かび上がる。宗教が遠ざけられ、内面がガランドウになった人間は、何か、その巨大な空洞を埋めるものを探す羽目になったのである。端的にそれが現代求められている「理念」というものの正体である。
いま私は、それを「人間の魅力の源」として明確に意識している。
もっと正確にいうと理念とは「近代という時代を歴史的に理解し、そして、相対化し、また、重ねて戦後日本の困難(=アノミー)を取り出し、それらふたつ(近代と戦後のアノミー)を内面から解決するもの」でなければならないということである。それは時代の要請である。理念は、単に市場に合理的に迫る戦略文ではないのである。「顧客をこうして喜ばす」というだけではない何かである。近代社会のメカニズムを理解せず、単に社会貢献・他者への貢献を叫んでも虚しく響くだけである。それだけでは不十分である。今の日本社会では、市場合理性だけでは顧客も社員も、元気になることはない。エネルギーは満たされない。
今、理念とは時代が要請するものであり、とりわけ戦後日本においては、人々が苦しむ巨大な空洞問題を解決するものとして求められているものである。「わたしたち日本人が魅力的に生き、そして死ぬ、その根源の価値観」である。それは、自然発生的に生まれるものではなく、また生来の資質のようなものを超えて、ひとりひとりが後天的に作り上げていくことができるものである。「理念」はわたしたちが現場でひとつひとつ作り上げていかなければならないものなのである。それは真の学習を重ねることによって可能である。
3つの条件としてまとめられる。
- わたしたちが棲む時代(=近代)を「ことば」で相対化できていること
- その時代、そして、その地域&コミュニティの人々が元気でいるために潜在的に必要とされている物語りであること
- 神なき今、その物語りは現世・世俗を相対化するものであること
である。
この3つが満たされ、そこに集う人々の心が信念にまで高められるとき、「理念」はエンジンとなり実際の現場で動き出す。
近代という時代が構造的に「理念」なるものを要求した
資本主義と民主主義と国民国家。それが近代社会の3種の神器である。歴史的に生成された。しかもそれは、西洋・アングロサクソンという一地方の特殊事情から起きた。端的に偶然の産物である。
「神のもとの平等」から派生した「平等」という規範。絶対王政を打ち破る過程で生まれた「権力からの自由」という意味での「自由」という規範。私たち人間はみな、神の意志に支配され、人間は神(=大いなるもの)の表現でしかないという意味で、わたしたちはみな同じ立場に置かれた哀れな存在でしかないという「慈悲」から派生した「博愛」の規範。「自由」「平等」「博愛」の近代の3つの精神も、実は、歴史的偶然の産物である。それが発展し、人類普遍の原理とされるに及んだ。
「自由」「平等」「博愛」が、「人類普遍の原理」ではない、と言いたいのではない。それすら時代相対的なものであるから、ある条件のもとでは作動しないことがある、そう認識することが重要であるということである。端的に今の日本にその条件は存在しない。
複雑な事情はここでは省くが(小室直樹著『痛快!憲法学』に詳しい)、要は、キリスト教という物語りがあって近代(資本主義・民主主義)が起こり、戦争に負けないために国民国家が起こった、それを理解したい。日本は明治維新で西洋列強に植民地にされないために突貫工事で近代化した。その時採用したのが「天皇教」という日本独特の一神教だったのである。近代という制度に天皇という魂を強制的にぶち込んだ。
西洋では近代化が進むにつれてキリスト教の「神」が薄れていくことになるのだが、こと日本では、敗戦後、天皇がアメリカの強制によって抜き取られることで「神」を失った。西洋が何百年もかけて失ったエンジンを、日本は一瞬で抜き取られたに等しい。車体を残してエンジンを失ったも同然。日本人の空虚はここに源を発する。
西洋と日本の現代社会の事情はこのように異なる。第二次世界大戦の本質が、お互いの「神」の存在の争いだったと理解すればわかる通り、日本は戦いに負けたのである。今更、逆転は叶わない。もう一度、戦争を仕掛けるわけにはいかない。ゆえに、今の状況を理解し、抜けた穴を埋めるべし。それが「理念」を考える上での理解の核心である。
本当は国家レベルで巨大な空洞を埋めるべく民主主義を作動させるのが筋である。人々は潜在的にはそれを求めている。しかし、今の日本の政治状況はそれを決して許さないだろう。国民も反射的にそれを拒絶する。三島由紀夫が命がけで叫んだような、憲法を改正して天皇を再び「神」の位置に祭り上げることは困難である。今、日本に必要なのは大きな「国家宗教」ではない(本当は必要だと思うが)。各人がそれぞれの持ち場で生み出す中くらいの「物語り」である。それが「理念」である。
元気になる物語りは真理・摂理「そのもの」ではない。それは、永遠を求める「あえてするロマン主義」である
世界に現存する5大宗教を考えてみる。大きくは仏教と一神教に大別できる。仏教はひたすら世界の真理を探究する体系。世界の真理を修行で悟ることを目的にする。現世は苦。一刻も早く悟りを得るために出家し修行に専念することを勧める。世俗の経済活動は行わない。一方、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教は、聖典に書かれているのは具体的な物語りであるが、そこから世界の摂理・真理を学ぼうとする。読み込み、議論することで、人々を元気にすることを画策する。安息日は振り返るための時間なのである。仏教と違って、始まりと終わりを明確に設定しようとする。人間はどこからきてどこに向かうのか。仏教では問うことすら回避されるその問いに明確に答えようとする。人間が世俗に生を受けている以上、それは必要なことである、とする。
どちらも長い歴史に磨かれてきた教義である。優劣はつけられない。しかし、今のわたしたちに必要なのはどちらか。どちらが今の日本に求められているのか。
近代という構造と、日本の戦後アノミーからくる「理念」の必要性を考えた場合、それは一神教の方であると思う。今の日本に足りないのは、フィクションではあっても「始まりと終わり」が明確にある心躍る「物語り」である。仏教で真理・摂理を知り、そのうえであえて心躍る「フィクション」をこしらえていく。それが「理念」と呼ばれるものである。
不可能であるとわかっていながら「あえて」「坂の上の雲」を求めてエネルギーを心に満たすためにする「ロマン主義」。それが今、求められている。ロマン主義とは「不可能性」のことであるが、不可能でいいのである。というか原理的にそれしかありえない。必要なのは、不可能と十分わかっていながら作る一つの物語り、理念。21世紀、大きな旗が打ち立てられるべき時である。
人間は誰しも限りある命を持つがゆえに、本能的に「永遠」を求めてしまう。永遠の命を欲しいと願う。それは人間のどうしようもない欲である。そこにロジカルに、習慣的に、答えるべし。それが優れた理念の必要条件である。
世俗を拒否してこそ、日常は輝く
ロマン主義が理想とする物語りの構造には一つの大きな真理が眠る。それは「永遠」を求める衝動である。人間の生には限りがある。誰しもいつかは死ぬ。それが動かし難い事実であるのに、どうして人は生きるのか。それは人間とはその存在の本質からして他者の記憶の中にこそ生きるからである。
仏教でいう「縁起」とは人間は関係から起こる、という意味であるが、それがこの世の摂理である。十二支縁起は私たちの実存の構造分析モデルである。
摂理はエントロピーに乗るメカニズムである。すなわち永遠ではない。人はいずれ朽ち果てる。それがエントロピー。そこを逆転させるのが他者の記憶に生きる自らの物語りである。現世を時間的にも空間的にも超えて描く物語りである。
その時初めて、エントロピーはネゲントロピーになる。無秩序は秩序化される。秩序化が人間の生の本質である。
現世を拒否する巨大な物語りをことばで紡ぎだすのである。組織で、事業で、コミュニティ全体で、大きな物語りを作ろうとするのである。
それが企業理念になり、組織理念になり、政治理念になる。
そして、近代に抗う武器となる。
エネルギーの枯渇から唯一逃れる知恵である。
「理念」とは端的に、現代に求められる中くらいの物語り(≒宗教)である。胡散臭かろうが何だろうが、それが近代人の構造的真実である。