ミスチル分析(6)『Starting Over』
スターティング・オーバー(Starting Over)とは、直訳で「最初からやり直す」という意味である。何を最初からやり直すのか?それは、“生きること”より“生き残ること”を優先して生きてきてしまった自分をやり直す、そういうことだろう。ミスチルのこの歌は、生きようとする自分と、生き残ろうとする自分の葛藤を描く歌である。生きようとする自分とは、自愛(自分の内面を慈しむ愛)を抱く自分、生き残ろうとする自分とは、社会システムの中で必死に有利な列に並ぼうとする偽装された自分=自己愛(外界への執着・ナルシシズム)を抱く自分である。その自愛と自己愛(ナルシシズム)との葛藤を歌う。
そもそも、収録されているアルバムのタイトルが『Reflection』である。リフレクションとは、「自分自身を振り返る=内省」という意味である。「内省」というアルバムの中の「初めからやり直す」という歌。仏教や社会システム理論への造詣も深い桜井さんが作るこの歌は、当然、「近代の社会構造→アルバムの趣旨→歌の趣旨」という論理の階梯ろんりのかいてい(マトリョーシカ構造)を前提に分析を進めるのが筋である。
♪肥大したモンスターの頭を
隠し持った散弾銃で仕留める
今度こそ躊躇などせずに
その引き金を引きたい
あいつの正体は虚栄心?
失敗を恐れる恐怖心?
持ち上げられ 浮き足立って
膨れ上がった自尊心?
さぁ 乱れた呼吸を整え
指先に意識を集めていく
いくら心を研ぎ澄ましても、座席争いに執着する自分からはなかなか逃れられない。不惑の年齢を過ぎ、天命を知るはずの頃を迎えても、それを根絶することが出来ない。だから、「隠し持った散弾銃で」でも、ぶっぱなしたいのだ。最初からやり直したい。自分の業の深さとこれからも付き合っていくために。
業の正体は「虚栄心」か、「恐怖心」か、それとも、ちやほやされて舞い上がっている自分自身の「自尊心」か。どちらにせよ、本当の自分を慈しむ自愛の心とは程遠い。自分の中に巣食う淀んだナルシシズムである。「乱れた呼吸を整え」るように、瞑想(内省)し、黒い部分に照準を絞る。
♪僕だけが行ける世界で銃声が轟く
眩い 儚い 閃光が駆けていった
「何かが終わり また何かが始まるんだ」
そう きっとその光は僕にそう叫んでる
「僕だけが行ける世界」とは内省の世界そのもの。自分自身の内面には、自分以外は行くことができない。理論物理学でいう「ゼロポイント・フィールド」である。「私」と世界をつなぐ唯一の窓。そこにはリフレクション(=内省)でしか到達できない。瞑想や座禅修行の末に到達できる悟りの入り口である。そのフィールドに行くことで、3つのナルシシズムを撃ち殺す。鉄の檻を生き抜くために武器を集めようとする利己的な「虚栄心」、座席からはじき出されたくないと不安がる「恐怖心」、うまくいった!と自惚れて浮足立つ「自尊心」という3つのナルシシズムである。そうすれば、「何かが終わり」また新しい「何かが始まる」・・・。
自身の頭と精神を極限まで集中させないと到達できないそのゼロポイント・フィールドの世界。散弾銃をぶっ放すくらいの気合と集中力を轟かす。・・・「閃光」が走った・・・気がする・・・、「僕に」何かを伝えようとしているかのように。
♪追い詰めたモンスターの目の奥に
孤独と純粋さを見付ける
捨てられた子猫みたいに
身体を丸め怯えてる
あぁ このままロープで繋いで
飼い慣らしてくことが出来たなら
でも、悪いのは社会じゃないか!悪いのは親や先生じゃないか!悪いのは大人たちじゃないか!自分は、子供だったんだ。親や先生が世界のすべてである子供に、どうしろっていうんだよ。
ナルシシズムを抱く自分も、結局は社会システムの被害者でしかない。別に悪気があってやってたわけじゃない。物心つく幼いころから親や先生に仕込まれただけなんだ。課された自分を責める気にはなれない。当然だろう。ナルシシズムという「モンスターの目の奥に」も「孤独と純粋さを見つける」ことができる。「体を丸め怯えてる」「捨てられた子猫」のようにも見える。それを殺せというのか?
♪いくつもの選択肢と可能性に囲まれ
探してた 望んでた ものがぼやけていく
「何かが生まれ また何かが死んでいくんだ」
そう きっとそこからは逃げられはしないだろう
「いくつもの選択肢と可能性に囲まれ」「探してた、望んでたものがぼやけてく」というのは、自由主義社会に対する慧眼だと思う。“自由とは選択の自由”のこと、という我々が思わされている幻想に、桜井さんは気が付いているのだと思う。自由とは決して、選択の自由のことではないのだ。それは、近代経済学の幻想でしかない。人間は決して、選択肢が多いことを自由とは感じない。むしろ不自由と感じる。よく考えればわかることだ。正確に計算すれば、何億通り以上の可能性に我々は囲まれているのだ。しかも毎日の瞬間、瞬間で。頭で判断できることなどたかが知れている。それを自由と称するなんて、近代人はなんて愚かなのだろう。
本当は体が勝手に反応しているのだ。だから磨くべきは理性ではなく、むしろ、内省からくる“感性”なのである。
そうした思想を下地として、この歌詞がある。
でも、それをわかってはいるが、キリスト教をベースとする近代思想の枠組みである選択の自由という大前提からは「逃げられはしないだろう」。それが世界の大前提のモノの見方・考え方だから。現代社会はいまだキリスト教社会であるアングロサクソンが牛耳っている・・・世界の摂理を見抜く仏教思想はいまだメイン・ストリームではない。
♪穏やか過ぎる夕暮れ
真夜中の静寂(しじま)
またモンスターが暴れだす
僕はそうっと息を殺し
弾倉に弾を込める
この静かな殺気を感づかれちまわぬように
人々の間でせわしなく働いている時ではなく、一人、穏やかに過ごす「夕暮れ」や「真夜中の静寂」こそ、感性の自分が生き生きと活動する時間である。そういう時こそが生きている自分である。この自分を大切にしたい。轟音と共にぶん回る近代の喧騒に振り回された「モンスター」がまた、出現したとしても、僕は強い心で自分に踏みとどまる。「Reflection」が僕に力を与える・・・
♪今日も 僕だけが行ける世界で銃声が轟く
眩い 儚い 閃光が駆けていった
「何かが終わり また何かが始まるんだ」
こうしてずっと この世界は廻ってる
「何かが終わり また何かが始まるんだ」
きっと きっと
・・・こうしてずっとこの世界は廻ってる・・・
諸行無常、諸法無我というブッダの言葉を持ち出すまでもなく、この世は苦でしかない。近代の社会システムと、それすら覆いつくし、飲み込んでしまうブッダのいうダルマ(=世界の法・摂理)は、自我(私の自意識)を無視して廻り続けていくようだ・・・
そこに一矢を報いることができるとしたら、それは「Reflection」だけである。それは「僕だけが行ける世界で銃声を轟」かせることである。
世界は巨大で制御不能に見える。それに踊らされる自身の虚栄心や自尊心も、殲滅することはできそうにない。でも、それにただただ、流されるだけで、他者に、社会に、迷惑なだけのモンスターにだけは成り下がりたくない。
だから『Reflection』、そうすれば、「何かが終わり、また、何かが始まるんだ、きっと、きっと」
こうして何回も、Starting Over、最初からやり直す・・・