ミスチルの分析(4)『タガタメ』

あまりにも複雑で、巨大な、私たちが棲むこの社会にあって、自分自身の内面が自由であり続けるためには、どうすればいいのだろうか?私たちは、毎日、この社会に振り回されている。思考停止して、「優秀」を気取り、出世競争に邁進できる奴は「幸せ」である。他人に迷惑をかけていることに気が付きさえしなければ、この世はハッピーかもしれない。私憤を公憤とはき違えてさえいれば、苦しむことはないのかもしれない。でも、もう僕は、気が付いてしまった・・・。見て見ぬふりは、もうできない・・・
どこかに大ボスがいるわけではない。誰かが、陰で、操っているのでは決してない。貧困だったりの被害者も、独裁政治家のような加害者も、究極、その人に責任を帰すことが、実は困難だということに気が付いてしまった。僕は、何に怒ればいいのだろうか?テロリストが悪いというより、テロリストを追い詰める巨大国家の浅ましさが本当は悪いはず。でも、その巨大国家の権力者を選んでいるのは、結局、私たち一人一人の無知で小さな欲望でしかない。僕の大事な人たちを殺す、爆弾のスイッチに手をかけているのは、実は、僕の内面のささやかな欲望だったりして・・・
僕は、結局、誰がために(タガタメに)戦っていることになるのだろうか?この世界は、あまりにも広い。そして、あまりにも複雑で、しかも、すべてが連鎖している・・・。どこから手を付ければいいのだろう?どこから始めればいいのだろう?途方に暮れる・・・。

♪ディカプリオの出世作なら
さっき僕が録画しておいたから
もう少し話をしよう
眠ってしまうにはまだ早いだろう
この星を見てるのは
君と僕とあと何人いるかな
ある人は泣いてるだろう
ある人はキスでもしてるんだろう
子供らを被害者に
加害者にもせず
この街で暮らすため
まず何をすべきだろう?

歌の出だしで、日常の、何気ない幸せなひと時と、巨大な社会システムの暴力を、鮮明に対比させようとする。幸せな日常は、ある日突然、奪われてしまうことが頻発している。確率は低いかもしれないが、子供の代にまで視野を広げれば、そうした災禍が降りかかってこないとは言い切れない。どんなに子供のためを思っているつもりでも、それが正しく作用しないのならば、その愛する子供が自らに刃物を向けることだってあるかもしれない。あの凶悪犯の親だって、実は自分とあまり変わらないことを知っている。ただ、見て見ないふりをしてきただけ。いつ、自分が、貧困の淵に追い落とされるかもわからない。今の生活が維持されているのも、実は、かなりの部分で、運でしかないこともわかっている。安全な未来を見通すことは、この近代社会にあっては、ほとんど不可能である。個人が気を付けるだけでは、もはや、どうしようもないことを知っている。被害者や加害者にならないように、自分が努力したとしても、ほとんど効力は限られているのである。ある日、突然、殺人犯にされたり、ある日突然、傷つけられる側に回る可能性は、誰にでもある。

♪でももし被害者に
加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し瞼を腫らし
祈るほかにないのか?
タダタダダキアッ
カタタタキダキアッ
テヲトッテダキアッテ

もし、自分の身の回りに災禍が降り注いできたとしたら、一気にその原因を取り除くことなんてできない。誰かを責めたって始まらない。どこにも大ボスはいないのである。加害者や被害者ですら、真の責任があるとは思えない。それは、自分がその立場に立って考えればわかる。本当は、どこにも責任などないのである。では、どうすればいいのか?祈るほかにないのか?

近代刑事裁判の鉄則は、犯人を見つけることではないのである。裁いているのは被告ではない。裁いているのは、検察(=国家権力)の論理一貫性である。社会全体に一貫性を保つことを優先している。被告に責任があるのかどうかなど、この複雑で、多忙な、社会にあっては、もはや“わかる”ことはできないことを知っているのである。だから、近代では、被告の責任を追及することを放棄した。その代替として、論理一貫性を持ち出すしかなかったのである。だから、論理一貫性をないがしろにする社会では、冤罪が頻発することになる。日本の刑事司法は、世界から、「中世の魔女狩り」と言われている。国連人権委員会で、いつも問題視されている。桜井さんは、そのことも念頭にあるのだと思う。この日本においては、被害者や加害者になる可能性が、他の国々より高いのである。しかも、それを大衆の支持が支えてしまっている。

♪左の人 右の人
ふとした場所で
きっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ
この世界に潜む怒りや悲しみに
あと何度出会うだろう
それを許せるかな

でもしかし、だからといって、イデオロギーにすがるのは間違っている。右翼も左翼も、自分たちがよすがとする主観客観図式の単線思考では、この社会の謎を解けないことを知らない。すべては連鎖しているのである。すべては依存関係にあるのである。「神、即、自然」か、「我思う、ゆえに我あり」か。デカルトよりスピノザの方が真理なのである。自分だけ切り離して高みの見物で考える、近代合理主義的思考は、もはや破綻していることに気が付けよ。そんな無知蒙昧が支配するこの社会だからこそ、怒りや悲しみは無尽蔵に生み出されるのだろう。これからも、かなりの確率で出会うことになるのだろう。果たして、それに耐えられるのか?それでも、人を許せるのか?

♪明日もし晴れたら
広い公園へ行こう
そしてブラブラ歩こう
手をつないで 犬を連れて
何も考えずに行こう
タタカッテ タタカッテ
タガタメタタカッテ
タタカッテ ダレカッタ
タガタメダ タガタメダ
タガタメ タタカッタ

些細な日常に触れることは、世界に触れること。公園の草木や、無邪気な動物の姿に癒される自分はまだ残っている。時にはなにも考えずに過ごしたい。でも、戦って、戦って・・・、戦うことから逃げられない。社会の真理を知ってしまった以上、敵前逃亡は、僕にはできない。でも、誰のための戦いなのか?誰のために僕は戦っているのだろうか?

♪子供らを被害者に
加害者にもせず
この街で暮らすため
まず、何をすべきだろう?
でも、もし被害者に
加害者になったとき
かろうじて出来ることは
相変わらず 性懲りもなく
愛すこと以外にない

タダタダダキアッテ
カタタキダキアッテ
テヲトッテダキアッテ
タダタダタダ タダタダタダ
タダタダダキアッテイコウ
タタカッテ タタカッテ
タガタメタタカッテ
タタカッテ ダレカッタ
タガタメダ タガタメダ
タガタメ タタカッタ

有名な古典的哲学書を読むより、2000年以上続く、宗教の教義を学ぶより、ミスチルの歌を「知る」ことのほうが、はるかに実りあるかもしれない。『タガタメ』はそう思わせてくれるに十分な重みをもつ。ミスチルがどれほど人類の思想史体系、哲学的素養、宗教的教養があるのかはわからないが、その透徹した視線は、あきらかに、そうした人類の英知の上に乗っている。社会主義革命で何千万という自国民を殺害した、「優秀」な扇動家より、何万冊という本を読破したと称する、高慢なテレビのコメンテーターより、ミスチルの歌は、はるかに真理をついている。はるかに社会貢献的である。
宮沢賢治は、その詩集『春と修羅』で、人間存在の真理を言葉に乗せた。文芸業界の範疇に入れば、人は、そこに権威を見出すことに躊躇はない。中身を理解していようと、もしくは、本当は読んだことすらなかったとしても、社会からオーソライズされた作品を評価している分には危険はない。自らの無知を晒さなくてすむ。無知蒙昧な大衆の前では、もっともらしいことのほうが、もっともなことより大事だから。それがあなたのためだから、と言って、「タタカッテ」いない知識人ほど大声でわめく。

わたしたちは、もうそろそろ、本物と、偽物を、区別してもいいころではないのか。ラベルに振り回される無知と、決別してもいいころではないのか。「タガタメニ」戦うのか?そして、結局、「ダレ」が「カッタ」のか?ミスチルの代表歌『タガタメ』は、そんなことを歌っているように、私には聞こえる。みなさんは、どう聞くだろうか?