ミスチルの分析(3)『花 ―Memento-Mori―』

ミスチルの分析(3)『花 ―Memento-Mori―』

ミスチル分析の第3弾は『花』。1996年のリリース。Memento-Moriメメント・モリという副題がついている。メメント・モリとはラテン語で、「汝は死を覚悟せよ」の意味。いずれ死にゆく存在としての人間=自分を、花になぞらえて歌う。

♪溜息色した通いなれた道
人ごみの中へ吸い込まれてく
消えてった小さな夢を
なんとなくね 数えて

「通いなれた道」が、「溜息色」をしているのは、なぜだろうか?
わたしは、自分が4歳くらいの時に、幼稚園に通うはずの朝、布団の中でふと考えたことが、自分自身の一番古い記憶として残っている。それと、この歌詞が、いつも重なる・・・
「ああ、こんな風にして、ずっと、どこかに通わなくちゃならないのかぁ。よく考えたら、60歳くらいまで、今日とおんなじように、ただ無意味にどこかに通うんだなぁ。僕は、お布団の中でぬくぬくしていたいのに・・・。僕の気持ちとは関係なく、強制的に連れられてゆく・・・」。年を重ねるごとに段々と、忙しさにかき消されて、そんなこと考えなくなるのかもしれないが、4歳の時の私は、驚くくらいハッキリと、そう、思ったことを覚えている。寝室の外からは、「早く起きなさ~いっ!」という、母の大きな声が響く。何か、巨大な力に巻き込まれていくことが、大人になるってことなんだよなぁ・・・。母の声が、その巨大な力の象徴に聞こえた。そうした、やるせない気持ちを振り払って、布団から這い出る。「溜息色した通いなれた道」という出だしの歌詞は、そんな幼いころの記憶を上手に表現してくれている、と思ったものだ。まるで、ベルトコンベヤーに乗るかのような単調さで、今日も「人ごみの中へ吸い込まれてゆく」・・・「消えてった小さな夢」たちを、「なんとなく」「数え」ながら・・・

人間は、ただ生まれて、ただ、死んでゆく。自分の意思とは関係なく、生まれて、死ぬ。そういう、どうしようもない存在である。しかも、その途中の時間は、自動機械の如くに、意思もなく流れてゆく。どこかで堰き止めたいとは思うけれど、毎日は結構忙しくて、ふと、思うと、何も考えていない自分に焦る。もっと、もっと、深く、人生を謳歌したいはずなのに。もっと、強度をもって、自分が生きているということを感じたいはずなのに。お腹がすくと空腹が、夜になると眠気が、そんな切ない思いを、いとも簡単にかき消してゆく・・・

♪同年代の友人たちが 家族を築いてく
人生観は様々 そう誰もが知ってる
悲しみをまた優しさに 変えながら生きてく

周りを見れば、「家族を築いてゆく」「同年代の友人たち」が増えてきた。深く聞いたことがあるわけじゃないけれど、そんなことでいいの?と心の中でつぶやく自分がいる。そんな簡単に、ベルトコンベヤーに乗っかっちゃっていいのかよ。そう問いただしたくなる。逃げてるだけじゃん。目を逸らしてるだけじゃないのかよ。「人生観は様々 そう誰もが知っている」。そんなこと、僕だって知ってるさ。でもさ、それって、お茶を濁してるだけじゃないのかよ。仕方がないから、僕は、そうした「悲しみ」を、「優しさに」「変えながら生きてく」・・・仕方ないから・・・なんだよ、みんな・・・ちくしょう・・・

♪ 負けないように 枯れないように 

笑って咲く花になろう

ふと自分に迷うときは 

風を集めて空に放つよ 今

果たして、何に「負けないように」なのか?「枯れないように」とは、どういう意味なのか?胸が苦しくなる・・・。「笑って咲く花になろう」と、言い聞かせないと、人間存在の無常観からくる、深い憂いからは逃れられない自分がいるのだ。そんな風に、「ふと自分に迷うときは」、空想の世界に逃げよう。「風を集めて空に放つ」ように、空を飛んでる自分を想像してみよう。鳥のように、翼を生やして、空を飛ぶ自分。そういえば、そんな夢、よく見るんだった。なぜだか、地上から低空飛行で、徐々に、そして、一気に、空に舞い上がる夢。全然、怖くもない。その時は、とてもうまく風を掴める。落ちてくる心配はイメージに浮かばない。僕は自由だ。そんな、よく見る夢と重なった・・・

♪恋愛観や感情論で愛は語れない

この思いが消えぬように 

そっと祈るだけ

甘えぬように寄り添うように

孤独を分け合うように

やはり誰かと繋がっていたくなる。それは理屈なんかじゃない。よく聞く「恋愛観」や「感情論」のような、人生のイベントスケジュールに乗せられるようなものじゃないんだ。適齢期という世間の時間割で語られてしまうと、穢されてしまう。蹂躙されたように感じる。でも、世間の大勢はそっちだ。だから、「この思いが消えぬように」「そっと祈る」、それだけしか、僕にはできない。一緒にいたい人にも、この僕の思いは伝わるかな。僕の中にも、君の中にも、世間の時間割は厳然とある。でも、そんなこと思い出したいわけじゃない。せめて、そうした世界に触れる時間を、わずかでも持ちたい。だから「甘えぬように」「寄り添うように」、慎重に、慎重に。ともに過ごす時間を壊さないように。お互いの「孤独を分け合うよう」でもあるんだから。そう、君も、僕も、人間存在という、切なく置かれた位置は変わらないのだから・・・男も女も、なにもない・・・

♪等身大の自分だって

きっと愛せるから

最大限の夢描くよ

たとえ無謀だと

人が笑ってもいいや

じゃあ、どう生きようか。油断すると失われてしまう人生の強度。自動機械的に流されてゆくシステムに乗ることが、ある意味、近代社会に生きる我々の宿命だとして・・・、そこから逃れられない、ちっぽけな「等身大」の「自分だって」「きっと愛せる」はず「だから」・・・少なくとも、「最大限の夢」を「描」こうか。同じ、ベルトコンベヤーに乗った「人」は、「無謀だと」「笑うん」だろうけど。それでも「いい」じゃないか。
他人は関係ない、って開き直りたいんじゃない。そじゃなく、俺たちみんな、自動機械化される宿命に置かれているからこそ、それが痛いほどわかっているからこそ、あえて、「最大限の夢」を描いて見せようとするんじゃないか?それが可能かどうかというのは、関係ないんだ。“ロマン主義”とは、“不可能性”の事だったじゃないか。不可能だとわかっていることに、あえて、チャレンジすることを、昔の人は、“ロマン主義”という言葉に込めたんだ。今に始まったことじゃないんだ。近代が勃興するベートーベンの時代にはすでに、僕とおんなじ悩みは世界中で感じられていたんだ。すでに何百年も繰り返されている、古くて、新しい、問題でしかない。同時代の「人が笑う」くらい、なんてことない、そう思えてきた・・・

♪やがてすべてが
散りゆく運命であっても
わかってるんだよ
多少リスクを背負っても
手にしたい 愛 愛

あ・え・て、する、“ロマン主義”・・・
それしか、近代人の生きる、「生き方」はない。「多少」の「リスク」は、むしろ、あったほうがいいのかもしれない。

♪負けないように
枯れないように
笑って咲く花になろう
ふと自分に迷うときは
風を集めて空に放つよ
ラララ・・・

心の中に、
永遠トワなる花を咲かそう
咲かそう・・・

この1996年のヒットソングには、ミスチルの、原点が描かれているように感じる。その後の、ブレイクを予感させるような歌詞が連なっていた。