ミスチルの分析(2)『ALIVE』

ミスチルの分析(2)『ALIVE』

ミスチルの分析の2回目である。今回は1997年リリースの、アルバム[BOLERO]に収められている『ALIVE』を取り上げたい。ここでも、桜井さんの社会に切り込む鋭すぎる視点が歌詞に刻まれる。私の好きな歌のひとつである。

♪この感情はなんだろう
無性に腹立つんだよ
自分を押し殺したはずなのに
馬鹿げた仕事を終え
環状線で家路を辿る車の中で
全部おりたい 寝転んでたい
そうぼやきながら
今日が行き過ぎる

わたしたちが、社会の歯車だということはみな知っている。それは、頭ではわかっている。30歳もまじかに迫れば、それを受け入れない人はむしろ少ない。しかし、毎日が、どうしようもなく腹立たしい、その自分の感情の発生源たるメカニズムを理解している者は少ない。
仏教で説く「諸行無常しょぎょうむじょう」「諸法無我しょほうむが」を根源として、私たち人間の「無明むみょう」が原因で発生してきた「近代の鉄の檻」とも称される社会システムに、われわれ現代人は、生まれながらに組み込まれている。それこそ、物心が付く前に、名前を他者から付与され、気が付くと「ダレのダレベェ」と呼ばれている。次第に自分自身が、「ダレのダレベェ」以外の存在であることが不可能であることを悟る。自分で自分を始めたわけではないのに、この社会では、自分以外の存在として生きることは許されない。自分は、いわば、他者から「課せられた」存在である。
そもそもどうして人間には名前があるのだろうか。そんなことをすら考えさせられる。すべての人には名前が付けられている。あたかも、社会のなかに位置を定められているかのように。そこにいるのが当然と、他者から押し付けられているかのように。そうした意味では、人間の名前も、缶詰のラベルとなんら変わらない。名前のない、わずかな残り物にも、人はご丁寧にも名前を付ける。そうすることでなぜか安心する。それは、他者を認識するには、わかりやすい、という利点があるからだが、それはそのまま、自分自身に対する他者の視点でもあり、「私」という存在を、外側から縛るものである。こうしてある時、人は、「本当の自分」は、誰にも理解されえない、ということを知る。社会に存在する自分は、他者に課せられたものでしかないということを悟る。
それが「この感情」が発生するメカニズムである。課せられた自分には、「馬鹿げた仕事」が割り当てられている。「全部おりたい」「寝転んでたい」けど、そう行動する勇気もなく流されているうちに、また「今日が行き過ぎる」・・・

♪手を汚さず奪うんだよ
傷つけずに殴んだよ
それがうまく生きる秘訣で
人類は醜くくても 人生は儚くても
愛し合える時を待つのかい
無駄なんじゃない 大人げない
知っちゃいながら

でも、近代の鉄の檻たる社会システムに捉えられているのは、何も自分だけではない。すべての人がいわば、被害者である。しかし、それに気が付けない人は、そうした自分のうっ憤を晴らすかのように他人を利用し、踏み台にする。「手を汚さず奪う」「傷つけず殴る」のは、頭はいいが、精神の浅ましい人間がする常套手段である。自分が直接手を下すのではなく、システムを利用して他者を痛めつけて快感を覚える。親も、上司も、先生も、浅ましい自分の動機に気が付いていない。社会とはそういうもんだ、と「うまく生きる秘訣」をかこつ。

♪誓いは破るもの 法とは犯すもの
それすらひとつの真実で
迷いや悩みなど
一生消えぬものと思えたなら
僕らはスーパーマン

誓約や法律は、社会秩序を保つためのもの、つまりはシステムから要求されているもので、個人が自由に生きるためのものではない。向いている方向は、社会システムの側で、個人の「生」ではない。ゆえに、それを破ることが、システムの外側に逃れることである。人間の絆は、実は、「法の外」にこそ存在する。だからこそ、不良仲間は、異常に絆が深まるのである。だから子供は、仲間と一緒にいたずらをする。一緒に、近所のミカンを盗むことを、仲間としての証とするのである。それが近代の「ひとつの真実で」あるから。

♪意味はなくとも 歩みは遅くとも
残されたわずかな時を
やがて荒野に 花は咲くだろう
あらゆる国境線を超えて

社会に組み込まれて生きることに、“自我の幸せ”という意味での「意味はな」い。そこにあるのは、がんじがらめのシステムに合わせる自分でしかない。しかし、それでも「やがて」、生きる意味を見出すことができるはず。もっと、もっと、賢く、物事を知るべく、「国境線」を超えてゆくことで、納得は訪れるはず。「さぁ、行こう」。

1997年といえば、桜井さんが20代後半のころである。このころの桜井さんは、仏教にどっぷりとはまっていたという話はどなたかに聞いたことはあるが、この時はまだ、自分の答えは見つかっていなかった、ということなのかもしれない。歌詞の中に、その形跡はない。ただただ、「報いはなくとも」、「救いはなくとも」、「いつかポッかり答えが出るかも」と信じて、「魂を燃やす」と歌う。その後にリリースされる歌の数々に、懸命に答えを探し、これが答えではないか?という言葉は、大量に表現されていくのだが・・・

ブッダはいう。人間の苦しみの根源には、自分自身の「無明むみょう」があるのだと。それが、自分を苦しめ、気づかないうちに愛する他者をも苦しめる。殺人事件で一番多いのは、今もって、家族内なのである。関係が近ければ近いほど、憎しみもまた深く、取り返しがつかないものになる。それが、他者に課せられて生きる、人間存在という呪縛ということだろう。
「無明」とは、そのどうしようもないメカニズムを認識できず、客観的に、世界や社会、他者や自分自身を見る視座のことである。自分自身が、メカニズムの一部だということに気が付けない。自分の感情を、心の奥底の動かしがたい核のようなものから発するものだと錯覚している。本当の自分をいまだ探している状態のことである。自分の「心」を鍛えれば、いずれ、「この感情」はコントロール可能だと思っている。自分はまだ、人間ができていないから・・・

でも、人間ができていないのではない。人間存在のメカニズムに気がついていないのである。20代の桜井さんも、その呪縛に苦しんだのだろう。それが『ALIVE』には刻み込まれている。苦しくも、切ない、出口のないループ、それがALIVE、人間が“生きている”ということである。逃げてはいけない。逃げても始まらない・・・「いつかポッかり答えが出るかも」、そう締めくくる。