ミスチルの分析(1)ミスチルは社会生態学者である

ミスチルの歌は現代社会を見る目を養わせてくれる

ミスチルの歌が好きだ。特にその歌詞が好きだ。そこに詠われている「ことば」が好きである。いや、好きというのは違う気もする。気になって仕方ないというべきかもしれない。浸っていたい、何度でも唱えたい祈りのことばにも似ている。20代のころから気になって仕方なかった。

多くの人がそうなのではないか、と私は思っているのだが、ミスチルの歌は社会分析的である。今の社会を「ことば」によって適確に切り取って見せてくれる。その「ことば」は社会学者か哲学者のごとく、現代社会を見事に抉る。ミスチルは社会生態学者と呼ぶにふさわしい。

J-Popに括られるので、大衆化された浅薄な匂いを纏わざるを得ないが、「大衆化」を、知らしめるための戦略と捉え、差し引くことが可能ならば、私は間違いなくミスチルは後世に残るインパクトを持っていると思う。社会学者である宮台真司さんや、評論家の宮崎哲也さんも同様の意見をおっしゃっているのを聞いたこともある。理論社会学的にも、思想・哲学的にも、「外していない」ということの証左だと思う。ミスチルは近代という時代の病に効く治療薬である。

私は哲学書も読むが、ミスチルの歌も、同じような感覚で聴いている。現代社会を見る目を養うには、どちらも格好の参考書なのである。

 

一番初めに取り上げたいのは、最新曲『Birthday』

Birthday(バースデイ)とは、単なる誕生日のことではない。いわゆる人生に訪れる第二の誕生日のこと。世界の捉え方がガラリと変わり、もはや、それまでの自分の“ものの見方・考え方”を思い出すことができなくなってしまう瞬間のことである。いくつもある悟りの扉を1枚開いた瞬間のこと、無明むみょうからの脱出の瞬間である。見えなかったものが急に解像度を増して迫りくる。振り返り=内省=リフレクションを重ねることで、ある時、突如、自分の内面を襲うのがこの第二の誕生日(Birthday)なのである。自分自身の色メガネの刷新。人生観がひっくり返る。

 

しばらくして 気付いたんだ 本物だって

熱くなって 冷やかして とっちらかって

シャボン玉が 食らったように はじけて消えんじゃない?

そう思って加速度を 緩めてきた…

 

何が本物だと気が付いたというのだろう。それは内省(リフレクション)という営みが、生きることそのもの、自分が自分の生を生きる上で、ど真ん中に位置するものだ!ということに気が付いたということだと思う。若いころはよくわからなかった。内省という営みも、ただただ、苦しいだけだったような記憶もあるのだけれど、年齢を重ね、何度も何度も繰り返していると、もしかしてこの“言葉を紡ぐ”ということが生きるということそのものなのか?と、ふと思うことがある。自分の記憶を興奮して眺めたり、冷めた目で突き放してみたり、ぐちゃぐちゃにしたこともある。本来、過去の記憶は、未来への企て(純粋な挑戦)をすることで初めて、より良き生せいを生きるための物語りに書き直されるのだけれど、その内省のメカニズムを理解できず、もしかして記憶ごと壊れてしまうのではないかという気がして、怖くて心の奥底からのチャレンジを控えてしまったこともあった。「加速度を緩めてきた・・・」のである。

 

君にだって 二つのちっちゃい牙があって

一つは過去 一つは未来に 噛みつきゃいい

歴史なんかを学ぶより 解き明かさなくちゃな

逃げも隠れもできぬ今を

 

過去の苦い記憶は、未来へ放たれるビジョンの源泉でもある。“ちっちゃな牙”で“噛みつく”ように、集中力をもって創作すれば、過去はビジョンとなり、未来の記憶として溶け合わされる。つまらない「歴史」の教科書を暗記するより、「今」の「私」を解き明かすことのほうがはるかに大事だし、そもそも歴史を学ぶとはそういうことだろ?過去と未来は「今」の「私」のためにあるもの。「今」からは逃げも隠れもできないのだから。意識を捨てることはできない。自分は自分から逃れることはできない。

 

It’s my Birthday 

消えない小さな炎を

ひとつひとつ増やしながら

心の火をそっと震わして

何度だって僕を繰り返すよ

そう いつだって It’s my Birthday

 

そうして深められた内省の物語りという「炎」を、ひとつひとつ「増やしながら」枯渇しないエネルギーを蓄えていく。「何度だって」「僕」という存在形式を重ねていく、「繰り返」していく。「そう、いつだって」それは「my Birthday」・・・記憶を物語りで書き換えていく。それが内面から湧き上がるエネルギーとなる・・・

 

「否定しか出来ないなんて子供だしね」って、

期待された答えを 吐き散らかして

無意識が悟ったように 僕は僕でしかない

いくつになっても 変われなくて

 

若い時は、社会の権威の何もかもを「否定」することしかできなかった。大人たちから期待される「答え」を飲み込んでは「吐き」出すことしかやってこなかった。でも、いくら外界に合わせようと努力しても、僕の「無意識」は「悟っ」ている。「僕」の自我だけは世界の法則には解消されえない。「僕」は、固有で唯一無二の存在で「しかない」。「いくつになっても」僕は僕であって、そのOSは「変われ」ない・・・どうもがいても、内面に何かを見つけるしか方法はない。外界に答えはない。

 

It’s my Birthday

飲み込んだ いくつもの怒りを

ひとつひとつ 吹き消しながら

風に乗って 希望へひとっ飛び

やがて素敵な 思い出に変わるよ

そう いつだって It’s my Birthday

 

内省でぶつかる過去の記憶は、その多くが後悔や「怒り」を伴うもの。親を責めたり、先生を責めたり、その時の権威を裁判にかける。でも、そんなことしたって今更、仕方ないことももう十分わかっている。そうした苦い記憶を「ひとつひとつ吹き消」すように、未来の「希望」に書き換える。すると苦い思い出は、「やがて素敵な思い出に変わる」はず。

 

It’s your Birthday

毎日が誰かのbirthday

ひとりひとり その命を

讃えながら 今日を祝いたい

そして君と 一緒に歌おう

いつだって そう It’s my Birthday

消えない小さな炎を

ひとつひとつ増やしながら

心の火をそっと震わして

何度だって僕を繰り返すよ

そう いつだって It’s my Birthday

そう いつだって It’s your Birthday

 

人間が人間であるゆえんは、過去と未来を思うことができる能力にある。そして、それらを言葉で書き換えることができる能力にある。捏造とは違う。未来に目的を設定することで、その捉え方を変えてしまうのである。

しかし、その人間固有の能力は、変えられない過去を嘆くことや、まだ見ぬ未来を不安に感じることに使われることが多い。今という時間しかないことを知りながら人間は過去と未来に囚われ続ける。でも「いつだって」そんな自分の態度を変え、見方を刷新することはできる。そのおんなじ能力を、第二の誕生日を生むことにも使うことができる。必要なのは勇気だけ。それも人間だけにしかできないこと。『Birthday』という単語には、そんな思いが込められている。