ミスチルから考える会社のカタチ
ミスチルは私にとって会社のカタチを考えるきっかけ
ミスチルが好きだ。それは20代のころからずっとで、50を目の前にした今でもなかなかやめられない。コンサートに行きたいとか、ファンクラブに入りたいとかは一切ない。メンバーの名前もボーカルの桜井さん以外はいまだに知らないくらいなのだが、どうしても私の体の中に入り込んできて感情を揺さぶる。朝は、普段ならニュース解説のネット番組など経営技術に関わるものや社会学、心理学、哲学、宗教などの動画番組を見ながら出勤するのだが、今日はそれらをあまり見る気になれず、ただ、なんとなくミスチルの曲を流しながらボーっとクルマを運転してきた。そしたら、ちょっと昔の『擬態』という曲の歌詞が耳に飛び込んできた。後半のサビ的な部分でこう叫ぶ。「でたらめを、誠実を、すべて自分のもんにできたならもっと強くなれるのに・・・」前から気になって仕方ない部分だったのだが、今回もやはり気になって仕方なくなってしまった。そこであれこれ考えた。
「でたらめ」と「誠実」の矛盾が、私たちが棲む「近代」という社会
ミスチルの歌詞は多くがそうなのだが、明に暗に、“近代の鉄の檻”への対応という心の“もがき”を表現する(と、私は感じている)。
産業革命以降、資本制生産システムが、急速に世界中を覆っていく過程で、日本も明治維新以降、それに巻き込まれ、人々は、そのシステムの中での座席争いが人生と化してしまう。そして、それは21世紀の今もちっとも変わっていない。いや、ますますそのシステムは強固に激しくぶん回るようになっている。ミスチルの歌は、そうした外界と自身の内面の平穏との葛藤を表現している。
『擬態』の歌詞にある「でたらめ」とは、システムへのアジャストのことだと思う。私たちが小さいころから余儀なくされている「いい学校・いい会社・いい人生」というやつ。偏差値偏重の競争社会のみに生きる姿のこと。親も先生も自分自身も、それが生きることと勘違いさせられ続けている枠組みである。一方「誠実」とは身近な他者との関係性を一番大事にする生き方であり、それが自分自身の感情をも、結果的にいたわることになるような、そんな価値観を指すのだと思う。「そのすべてを自分のものにできたならもっと強くなれるのに」とミスチルは歌う。私は自分自身の、そしてこの会社のことを重ねずにいられなくなった。
私たちはいつも「近代の鉄の檻」に呼びかけられる
「でたらめ」さは、“軽薄さ”とも言い換えられる。企業社会によくいる「頭の回転は速いがなんか中身がない」と感じる人々である。デジタル革命の流れもあって、こういう人々は専門的な仕事に埋没することを好む。難しい専門用語を覚え他者との関係性の間に見えない壁を形作る。その壁は自分を優位に見せるためのものであると同時に、空っぽな内面に踏み込まれないようにさせる防波堤でもある。ニュートン・ガリレオ以来の科学革命の恩恵を受け、いわゆる専門職はこの時代にあっても座席を確保しやすいが、こういう輩はたいていいつも経営に対して苛ついている。あいつわかってない、それが自社の社長に対する口癖になる。ほんとうはこの“近代の鉄の檻”という社会システムに苛ついているのだが・・・。経営と近代社会システムとを重ね合わせていることに気づけずに苦しんでいる。
この「時代の構造的重圧」からくる苦しみを解決するすべはあるのだろうか。それとぴったり付き合っていかなければならない企業という現代の代表的な組織は、そうした苦しむ個人に武器を授けることはできるのか。
企業は、その大小を問わず、近代の鉄の檻システムを代表するグローバル市場、そして、グローバル金融資本と付き合っていかなければならない。お金という生活の糧を稼がなければならない以上、それは必然である。好ましくないと感じるからといって、経営がそれを切り離すことはできない。切り離せばそれは、マクロメカニズム的な意味で不誠実となる。個人というミクロな誠実を求めるマクロな不誠実が成立してしまうことになる。もはやそこに一貫性はなくなってしまう。ゆえに持続性もない。会社にできることはなんだろうか。
日本の会社は近代社会システムからの防波堤でなければならない
私はその答えの一つが会社組織を、中心を形成する内側の円とその周縁を形成する外側の円を、二重丸を描くように設計していくことだと考えている。内側は家族的な温かさを備えた共同体的価値観の重心、外側がグローバル市場・資本にアジャストすべく磨き上げられた専門性という輪。社内に抱える外側の専門性の主なものは多くても二つ。専門性の周縁に小さな専門性が存在することはあるが、事業のカギになる大きな専門性は、3つ目以降、会社の外に出してしまうことが重要だ。ポイントは組織の中心に存在させる共同体的価値観とのバランスで、それが棄損されるほどに専門性が際立ってはまずい。
これは何を言っているかというと、内面の充実を担保するような日曜礼拝のような習慣のない日本では、企業組織といえども、その中心には「三丁目の夕日」的、安心感を努力して作らなければならないということである。アメリカ的、ジョブディスクリプション的な人事制度が2000年以降ドッと日本に流れ込んできたわけだが、そうした評価制度をそのまま日本企業に適用してしまうのはとても危険だということでもある。アメリカ社会でうまくいっているからと言って日本でうまくいくとは限らないのだ。ビジネスモデルと異なりこの場合は、人間性に関わる組織構造の問題。組織が社会の縮図である以上、ときの社会の構造を踏まえたうえでないと決してうまくいくことはないのである。
かくいう私も数年前、アメリカ型のジョブディスクリプション、それをベースとした評価制度の導入に踏み切ったことがある。その時は、導入後に何が起きるのか、そのメカニズムはどうアーキテクトされているのかという理解が追い付いていなかった。結果、組織は荒廃し業績面でも巨大な特損を計上することになる。いま振り返れば、それは私自身の経営的理解の浅さからくる結末だった。要は、格好つけていたのである。猛烈に反省した。
防波堤となる会社は近代へのアンチテーゼ
乱暴な言い方になるが、明治維新以降、グローバル経済機構に巻き込まれていく日本人は、自分たちの内面的な充足が何によって担保されていたのかというメカニズムを社会的に振り返ることもなく、ただひたすら西洋的なグローバルシステムに合わせることだけに執心してきた。家族の幸せ、身近な他者の幸せのためにそうすべきだと国家的に思わされることで。大正時代や戦後東京オリンピック前の一時期には、一瞬、日本的幸福感形成メカニズムを企業に取り入れるべくそれが実現された時代はあったようだが、高度経済成長期を経てそのほとんどが雲散霧消してしまった。21世紀の今は、もはやそれは欠片ほどの大きさを残すだけなのかもしれない。しかし、私は、そのカケラは、数ある日本の中小企業の経営の中に垣間見ることができるし、懸命に努力している友人の姿も実際に知っている。D2Cの時代、小さな会社が自分たちの主張を直接社会に問うことができるこの時代に、そうした中小企業の一つである我々も、時代へのアンチテーゼを発信していく責務を負っているのである。
会社組織の真ん中では志のある「素人集団」がマネジメントすべき
真ん中にある中心を形成する円は、別の言い方をするならば「素人集団」である。そして、その外側に形成される円は「専門家」の一群である。しかし、この「素人集団」という言葉がいくばくかの軽蔑の意味を帯びていようとこれが現代日本企業のあるべき組織構造の真理であることは疑いがない。この「素人集団」という言葉をゼネラリストやマネジメントという言葉に置き換える向きもあるだろうが、やはりそれでも本質を完璧についているようには思われない。それは時代的に、それを表現する言葉が社会の中からもはやなくなってしまったということを意味する。
ドラッカーは全体主義への防波堤としてのマネジメントを開発した。日本社会においても同様な意味でこの「素人集団」に代わる、何か、いけてる言葉を開発する必要があるのだと思う。私も一当事者として、大きな仕事として今後もそれに取り組んでいきたいと思う。(残念ながら今はまだ思いついていない)
ミスチルの歌詞から私はいつもこんなことに思いを馳せている。もっと素直に楽しめばいいのに、と流石に思うこともあるし、カラオケで飛んだり跳ねたりしながら踊りまくることも(たまには)ある。でも、それでもやはり、ミスチルが今でも心から離れない理由を、この文章を書いていて改めて自覚した次第である。う~ん、やっぱりもうしばらく離れられそうにない・・・