経営者は解放感を味わうことを許されていない
解放感を求める心が経営者における最大の罪
わたしも経営者の末席に座るものである。創業して20年も経ってしまった。だから、「経営者に欠けているもの」は、私自身に対する自戒を込めたものである。経営者の置かれた構造的な立場と、そこからくる本来あるべき苦悩、そして、その苦悩を手放したときに浸る解放感を巡る話をしようと思う。ちなみに、先取りして言うと、この解放感は経営者における最大の罪である。
経営者は本来、矛盾の中に立っている
経営者とは近代社会システムのエージェントである。エージェントとは「代理人」と訳されることが多い。要は、近代社会において経営者は資本制生産システムの利益を最大化するように遣わされているシステムの代理人という側面を持つ。代理人に徹すると巨大な業績が生まれる。これが経営者の構造的な立場。
一方、経営者は、この世で最も複雑な人間集団のリーダーでもある。人間は一人一人が全く違う。集団になるとさらにその複雑さが増す。働かない、勉強しない、怠惰な社員も抱えている。そうした「できない社員」も権利を主張する。そこにあるのは具体的な顔である。生活を抱え、毎日、泣いたり笑ったりする生身の人間である。人間の行動は計算できない。予測や計画という近代の作法にそもそも馴染まない。
経営者は、一方で、近代という自然科学的な分析対象とすべきシステムの代理人であり、一方で、思い通りにはならない生身の人間のリーダーである。苦悩は、この性質の異なる二つの板挟みから起こる。左手にシステム、右手に生身の人間である。自然科学と人文科学を両の手でバランスさせている。
日本の経営者が誘われる「誘惑」
そして、いつも日本の経営者は誘惑に駆られている。アメリカ的なるものを賛美する空気が、戦後、無邪気に醸成されてきたがために、システムのエージェントとして振る舞う作法が格好いいとされるようになったからだ。右手に乗る人文科学を手放してもいいのだよ、と市場からささやかれ続けているのである。証券会社やファンドマネジャー、投資家と言われる職業につく人たちは、西郷隆盛より坂本竜馬を好む人が多いはずだ。統計があるわけではないし、誰かに聞いたわけでもないが、メカニズム思考を進めるとそういう論理的帰結が導ける。おそらく間違ってないだろう。渋沢栄一の『論語とそろばん』という本が辛うじて一石を投じてはいるが、そんなもの、なぎ倒して余りあるくらい近代システムのエージェントは儲かる。現実の目の前の巨大な儲けは、人文科学への学習意欲を枯渇させる。哲学や思想史・宗教史といった人類の知恵の集積に対する興味関心を蒸発させてしまう。
わたしも10年以上前、そうしたシステムからの呼びかけ(誘惑)に、人間への動機が枯渇しそうになるのを経験したことがある。ちょうど最初の事業が軌道に乗った時だった。売上は10億を超え、50億も視野に入ってきた時だ。20社ほどのベンチャーキャピタルの営業マンが次々アポを求めて連絡してきた。私はその全員とお会いした。
IPOとは会社を売ることである。創業者はそうして一生かけても使いきれないほど巨大なお金を手にできる。現代に残された最後の金鉱ともいわれる。「それは皆さんやっていることですよ。どんな社長も創業者利益を手にするためにIPOを目指されます。」しかし、それがどうしても鼻についた。馬鹿にされているように感じた。「あなたもそうでしょ?カッコつけてるみたいですけど、所詮、同じ穴のムジナでしょ?」そう言われている気がした。「何を躊躇しているんですか。これまで苦労されてきたんだから、このくらい当たり前です・・・」確かにそうだ。創業者しか味わったことのない苦労はある。その苦しさは私にしかわからないだろう。一瞬、気持ちがグラつく。しかし、何か違和感が残った。そうして私はIPOを目指すことをやめた。やるなら、この違和感の正体を見極めてからだ、そう心に誓った。
必要なのはMBAではなく哲学や思想史などの古典を理解すること
私はIPOを取り止め、権限を現場に移譲することで時間的な余裕を手にした。準備期間を経て3年ほど前、丸1年間、朝から晩まで部屋に閉じこもって哲学書や宗教書を読みふけることに没頭した。本当に何もかも忘れるほど勉強した。その間、実は基幹システムに問題を引き起こし、会社は大きな損失を計上するはめになるのだが、私はその時、倒産を賭けるくらいじゃないと本当に欲しいものは手に入らない、そう心に誓っていた。何を馬鹿な、という声が聞こえてきそうだが、わたしはそうして得難いものを手に入れた。
違和感の正体がわかったのだ。それが「鉄の檻」とマックス・ウェーバーが言っている近代社会をすみずみまで覆いつくすシステムの存在であった。ベンチャーキャピタルの営業マンの言葉に中身がないように感じたのも、このシステムに操られていることを自覚していないからだったのだ。人間の顔をしているが、所詮彼らはシステムの代理人であった。
私はこれで、ようやく自分の意思で経営を始められると思った。今後、上場するにしてもしないにしても、それによって自身のエネルギーが枯渇することはないだろう。
わたしのヒーローはいま、むしろ西郷のほうである。西郷は禅の勉強をその礎に開国後の日本を憂えた人物である。竜馬はグローバルシステムの代理人である。竜馬はNHK大河ドラマで福山雅治が演じたほどの人気者である。私の息子も西郷より竜馬が好きである。こうして経営者は日々、システムに呼びかけられる。竜馬と西郷が、経営者を苦悩の底に突き落とす。経営者の中では、この二人が常に綱引きをする。今につながる思想史などのメカニズムを理解できなければ、そうした自身の心理さえ理解できない。そうして、多くの経営者は西郷を捨て竜馬にすがる。人文科学への興味を封印し、自然科学の方に渋々付き従う。
しかし、目の前に具体的な社員の顔を見ている以上、恥を知る普通の人間なら西郷を捨て竜馬にのみ従うことに、巨大な違和感を抱いて当然であろう。目の前の人間の顔を記号として見ることは普通出来ない。システムからの呼びかけに、社会に埋め込まれて育った人間は容易にはその内面を略奪されはしない。近代社会の経営者の苦悩はこうして果てしなく続く。
経営者は二つの側面を手放してはいけない
経営者に欠けているもの。私が何を現代の経営者に欠けていると考えているのかもう明らかであると思う。それは西郷であり、自身を恥じる気持ちである。いくら投資が儲かるからといって、システムのエージェントに徹するのは端的に間違っている。それは儲かるかもしれないが、人間が人間ではなくなってしまう。人類を虫化させる力学である。
竜馬と西郷、経営者はその両の手に、日本が誇る二人のヒーローを乗せ続けなければならない。その一方である西郷を手放すことは許されないのである。私はそう思う。