映画『JOKER』ジョーカーが殺したもの
JOKERは私自身の中に棲む「卑怯」を抉り出す
映画の中のジョーカーの姿を見ていると、その境遇に同情し、ひどいアメリカ社会を嘆くのが「フツー」の日本人の姿なのかもしれない。でも、それでは感受性が貧しすぎるに違いない。
この映画が抉り出すのは、私たちの中に巣食うさもしくも浅ましい「卑怯者」なのである。自分や自分の家族だけを、システムの不具合によって生じた火の粉から周到に避難させたうえで、その安全地帯の影から顔を覗かせてうそぶく「善人」。船全体のシステムのお粗末さを薄々知りながら、それに気が付くと自分が頑張らなくちゃならないから気が付かないふりをする「卑怯」。そして、システムのはざまに落ち込んだ被害者のやむにやまれぬ暴力を、目の前で行われるというただそれだけで、野蛮な行いだと容赦なく責め立てる「傲慢」。私たちはそうした自分を「カタギ」と免責する。一方の「正義」を「インテリやくざ」と叩き落したうえで・・・。コロナで「夜の街」を叩いた構図と同じである。
いまだに残る「村八分」的社会現象は、日本人から「正義感」を遠ざける。システム全体が、淀んだ流れを排除しきれない。今の私たちの困難に巣食う真因である。私たちはいまだに、自分可愛さの卑怯なだけの振る舞いを、システムを利用して正当化して気が付かない。社会とはそういうものだから・・・、法律があるから・・・、自分は平和主義者だから・・・、家族がいるから、生活があるから・・・、そういってうそぶく言説である。それがあなたのためだから・・・、善意の親や先生の常套句はいまだに健在である。そちらのほうがよっぽどひどい暴力かもしれないということに気が付けない。システム全体のメカニズムを使って弱者を抹殺していることを自覚することができない。
ジョーカーがテレビ番組出演中に射殺するデニーロ演じるマーレイはその象徴。自分の幸運を自覚できない傲慢なわたしたち近代人、そして日本人の姿である。マーレイ(デニーロ)は「善人」の仮面をかぶった私たち一人一人の中に潜む「卑怯者」である。
ロバート・デニーロがカッコよくないのはなぜか。そして、JOKERに人々が感染するのはなぜか
この映画には、名優ロバート・デニーロが出演している。これが「フツー」の近代人の姿である。私自身の姿である。デニーロは明らかに多数派である。「犯罪」を犯すジョーカーが少数派。しかし、デニーロには何かこう「嫌な感じ」を受けてしまう。でも、こうした人々を、実は私たちは容易には批判できないのだ。「嫌な感じ」は近代の社会ステムの存在を抜きにしては語れない。だから、直接的には言い表しようのない感情である。その感情の理由を明確に意識することは難しい。でも自分はジョーカーよりむしろデニーロかもしれない。
その正体は何だろうか。
それは、私たち近代人が否応なく抱え込む「善意」という名の「クズ」である。近代という社会が、その成り立ちの構造から抱え込む損得計算のみで成り立つ「クズ」メカニズムである。私たちはそれに無邪気に乗っている。そして、多くの場合そのことに気が付いていない。まさに、高校生だった私は、そのことにまったく気が付いていなかった。懸命に座席争いに邁進する自分に、どこかで違和感を感じながらも、親や先生のいうことに「素直に」従っていた。私はいわゆるカッコ付きの「優等生」だった。そんな自分に座りの悪さを感じながらも、当時の私は手を打つことはなかった。そこそこの進学校に通い、それをどこかで誇らしく感じる「構造的上から目線」の「嫌みな存在」だったのだと思う。それをJOKERは思い出させてくれる。いや突きつけられたというべきか。
だからこそ目を背けたくもなった。でも同時に目を背けてはいけないとも思った。
この社会に「法」や「制度」という秩序がないと、社会は混乱し人間同士は最終的に暴力で争うことになるだろう。戦国時代の日本や開拓期のアメリカ、そのほか歴史上のどんな時代にも暴力がなくなったことはない。いや、本当は暴力をなくせた社会など今の今まで存在しない。私たちが棲む近代社会は暴力を見えないところに隔離した。国家という装置が暴力を独占し、私たちの目の前の日常からほぼ完ぺきに隔離した。近代国家はゲバルトを独占することがその最大の使命である。目の前の暴力は近代社会システムをスムーズに回すのに不都合な存在だから「あえて」国家が制度的に抱え込むことを選択したのである。
私たちは日常、暴力団のような存在を否定する。暴力はいけないこととして批判する。それは端的に正しい。暴力は悪である。しかし一方、我々は国家が行う暴力には無頓着である。死刑も立派な暴力である。冤罪ならなおさら。また、不当な徴税制度もある意味暴力である。財産を不当に没収するのだから暴力に違いない。官僚が作り上げた天下りネットワークも立派な暴力である。国の経済を崩壊の淵に追いやっている。ただ合法的だというに過ぎない。時代が違えば市民につるし上げられていたことだろう。
近代人は見えないことをいいことに、それを「善意」という名で覆い隠すのに慣れてしまった。そして、社会システムが貧者を救うはずだからと、自分自身は何もしないことにあまりにも慣れてしまったのである。ジョーカーはそれを訴えている。社会のシステムに適合してさえいれば自分は免責されると思い込んでいる「善意」をかこつ私たちに、それは立派な暴力なんだ、と突きつけるのである。われわれが乗る社会システムは、本当は立派な暴力装置にもなりうるんだということを私たちに突きつけるのである。無邪気なシステムによる暴力に気が付け、と。
ロバート・デニーロ演じるマーレイは、こうした近代の「善人」の代表者である。メカニズム思考を失ってしまった、わたしたち一人一人の象徴なのである。JOKERは逆に、私たちの中にわずかに残っている「正義」の象徴である。だから人々は、マーレイ(デニーロ)より、JOKERに感染する。
近代人が自分に正直であるためには自分の中にいるデニーロから目を逸らさないこと
不条理な暴力を排除するために、私たちは近代社会システムを肯定する。世界から貧困をなくすための市場システムも肯定する。それは仕方ない。暴力団がはびこる社会を良しとする人はいない。しかし、一方で、その暴力を独占した近代国家システムは、常に不完全なのだということを私たちは自覚しなければならないのだろう。そして、すべての近代人はシステムでつながってしまっているということを、想像力を駆使して理解しなければならないのだろう。目の前の不正に短絡的に反応するだけは、まさにそれだけでシステムを利用した暴力を働いているという事実に気が付かなければならない。それが、システムの恩恵を受けるものとしての務めであろう。社会メカニズムを理解できないときは、その自らの「不正」を「善意」と取り違えてしまう。自分に「悪意」がないからこそ、酷いことをしているということもまた自覚しにくい。
西欧諸国は、王様の悪政に苦しんだ末に市民革命という自覚的な行動で近代の民主主義を手に入れた。一方、我々日本人は明治維新の際に、西洋の列強から自分たちを守るために上からの改革で市民主権を手に入れた。だから、近代というものに対する自覚的理解に乏しい。よっぽど社会で苦しい思いを経験したことでもない限り、社会システムの暴力性に気が付くことは稀である。そして今日も、無邪気にシステムが同胞を圧殺するのを手助けしてしまう。
われわれ日本人はどうすればいいのだろう。
政治は動かない。先の都知事選でも、何もしないというただそれだけの理由で現職が圧倒的大差で再選された。私たちがすむこの国は、『JOKER』のような映画はもう作られない。
社会システム理論学者の宮台真司さんは、その現実を徹底的に「絶望せよ」という。徹底的に、自分たちのダメさを自覚するところからしか希望の光はさしえない、そう言う。私もそうかもしれない、と思う。まずは、この社会の「黒い淀み」をまっすぐに見つめることから始めるしかないのだと思う。そして、自分にできる手の届く範囲のことから具体的に手を付けるしかない。
会社で働く人間であれば、その所属する組織を、事業を、社会貢献的なモデルに変革すべく刷新することだろう。「ここではないどこかに自分が活躍する場所がある」などと、いきなり逃げを打つようなことは「卑怯」そのものだろう。毎日、私たち自身が自分を振り返ることでしか、そして、そのリズムを大きなものに育てることでしか、この社会は刷新されえないであろう。停滞の原因は私自身のデニーロにこそあるのだから。
そう、私自身が毎日、懸命に内省することである。徹底的に、自分のデニーロに正直であろうとすることである。それ以外、自分を騙すことなくこの「絶望」から逃れるすべはないのではないだろうか。
映画『JOKER』は、そんな気持ちを抱かせてくれるに十分な厚みを持つ映画だった。いい映画だった。