映画『ホース・ソルジャー』を見て

映画『ホース・ソルジャー』を見て

私は社会システムを考えるために映画を見る

わたしはネットフリクスの会員である。休みの日などは、いい映画はないか、といろいろ物色している。最近は、熊井啓監督の作品なんかを見始めている。オウム真理教による松本サリン事件を題材にした『日本の黒い夏(冤罪)』で知った監督である。調べると、面白そうな映画をたくさん作っている。知らなかったことにもったいなさを感じた。ただ、今日の話は『ホース・ソルジャー』、アメリカ映画だ。

この映画も最近見て『内省』にまとめておきたいと思ったものだ。キリスト教を基盤とするアメリカ的なるものと、それに対立するイスラム教徒の信念の対比を描いた映画である。私たち日本人の苦手な世界の原理の一旦を示してくれていると感じた。

 

一貫性という意味ではムスリムの方に軍配が上がる

わたしは、アメリカ映画を、なかなか素直に楽しむことができない。特に、“戦争もの”や“政治もの”、“スパイもの”のような場合はなおさらだ。ドンちゃん、ドンちゃん、ただ激しいだけの映画なら娯楽として楽しめるが、国のモノの見方・考え方が背景を構成するような作品は、どうしても考え込んでしまう。そして、たいてい、この映画見方が偏っているな、と思う。『ホース・ソルジャー』もそういう意味では、最初、素直には見れなかった。しかし、この映画は、私にあたらしい視点を提供してくれた。それが、映画の中の一方の主役である、アフガニスタン北部同盟のドスタム将軍の存在だ。

この映画は、2001911日(通称9.11)のアメリカ同時多発テロ(とアメリカが呼んでいる)を舞台にした映画である。その直後、アメリカ陸軍は特殊部隊をアフガニスタンに送る。そうして、山奥深くまで侵入し、アルカイダに大きな打撃を与えるというもの。その際、アフガニスタンの北部同盟の将軍、ドスタムと、アメリカ特殊部隊の隊長ミッチ・ネルソンとが交わす会話が興味深い。

アメリカの隊長が、いらいらして将軍に迫るのだが、将軍は、それとは違う論理で答える。これが面白い。

 

ドスタム将軍曰く。

「君たちの上には何人もの上役がいるが、私の上には神だけだ。」

「君は頭で考えすぎる。(胸に拳をあてて)ここで考えるんだ、ここで。」

「君たちの武器は素晴らしい。でも、君たちは勝てない。」

「我々は、死を恐れない。」

「君たちは兵士だ。しかし、私たちは戦士だ。」

 

日本人はアメリカ的なるもの(近代)を身体に染み込ませている

最初、野蛮でしかないと思っていたこの将軍が、とてもカッコよく感じられるようになってしまった。私も、このアメリカの隊長と同じ近代人なんだな、そう思わされた。気づかないうちにアメリカ的なるものに浸かっているらしい。最近、周りにはこんなかっこいいセリフを言う奴なんていないな・・・

この映画は、単なるテロとの戦い映画ではなかった。あの悲劇の直後は、そうしたアメリカ万歳・イスラム野蛮のような単純な図式の映画が多かった気がするが、20年余りの歳月が経ったからなのだろうか、冷静に惨事を眺める視点が入っているように感じられた。

明らかに、近代の象徴であるアメリカ的なるものと、その問題点を鋭く指し示すイスラム的なるものの対立構図が描かれている。「生き残ること」を徹底的に追及するアメリカ的なるもの=近代と、「生きること」にこだわり続けるイスラム的なるもの=脱近代の図式。

アメリカ的なる近代は、主観(自己)を世界から切り離し、世界(=ものごとすべて)を対象化して、理性で分析・理解する作法を徹底的に押し進めた。その結果、自分や時間さえも、分析の対象になり、「超自我」や「計画」なる言葉が生まれ出る。そして、時間は均等な幅を持つ物理的空間と化し、「死」ぬまでの時間をも計画するようになった。生命保険なるサービスが生まれたのも近代の作法の結果である。そうして、自分を、ベルトコンベヤーの上に乗せてしまった。

「生き残ること」に徹底的にこだわるアメリカ的なる近代は、経済や戦争に強い。内省を脇に置くことで、余計な悩みが消え去った。「信教の自由」を、憲法の中に封じ込めることで、他者との関係さえも、合理的な分析の対象にしてしまった。結果、資本主義は憂いをなくし急成長する。そのお金を軍備に回し、どこにも負けない軍事力を築き上げた。

それが正しいことだったからではない。世界の一地方でしかない西ヨーロッパの宗教的な争いの結果、偶然生まれた観念に過ぎない。それが、たまたま戦争に強かったがために、世界を席巻することになる。21世紀の今も、その構図は全く変わっていない。

 

ムスリムは内面の平穏を重視する

一方、イスラムは、シーア派とスンニ派の対立はあるものの、キリスト教のように、「政教分離」を選ぶことはなかった。カリフ性はどの宗派でも原則、違わない。その中心はあくまで「生きること」。「生き残ること」を世俗の中心に据えるアメリカ的なる近代主義者を信仰の観点からは、どうしても受け入れられない。イランのような世俗化が進んだムスリムもいるが、その中心はあくまでカリフ性の再興である。ISが生まれた思想的背景もこうした原理にこそある。

日本はどうかというと、もともとはイスラムの方、つまり、「生きること」を「生き残ること」より大切にしてきたはずだった。それが、明治維新以降、そして、特に敗戦後、一気に「生き残ること」の方に舵を切った。今では、アメリカ的なるものを無邪気に受け入れたまま、疑うこともなくなってしまった。むしろ、アメリカ的なる近代を、進歩と称して疑わないくらい。「近代」の作法が方法論でしかないということを、もうすっかり忘れてしまった。

アメリカ的なる近代は、いわば社会システムそのもの。「生き残ること」とは、社会での座席争いのことそのものである。ゆえに、ある時、ふと、「それで、なんだっけ?いい学校、いい会社、いい人生って教えられてきたけど・・・」と、“こんなはずじゃなかった感”に襲われる。それは、人間存在としての構造的なものだ。感じていないのであれば、それは座席争い的に大変恵まれているか、あなたがかなり近代に毒されているかの、どちらかに違いない。社会構造からは誰も逃れられないのだから。

 

それでも両者は分かり合えるのかもしれない

アメリカ陸軍特殊部隊の隊長ミッチ・ネルソンは、その近代人の象徴として描かれている。一方、アフガニスタン北部同盟のドスタム将軍は、反近代の象徴的人物。その二人が、生死のやり取りをする戦場で対峙する。そこには決定的な矛盾がある。しかし、死闘を経て、ふたりの間には友情のような絆が生まれる。それまで言い争っていた近代・反近代の構造など、もうどうでもいいか・・・という空気とともに。いいシーンだった。

近代・反近代といっても、それそのものも、人間が勝手に作った観念でしかないのかもしれない。なにかを作りあげようと必死に足掻くその傍らには、もはやイデオロギーなど存在しないのかもしれない。人間が幸せになるためにと作り上げた観念である「神」や「近代」は、なんだったのだろうか。そんなことを考えさせてくれる一本だった。