マーケティングって何だろう?_(1)学習すること
マーケティングって何だろう
マーケティングという言葉を知らない会社員はいない。会社で働く人間としては、最も関心が集中するビジネス技術であろう。ドラッカーも企業にはマーケティングとイノベーションの機能以外にはないと言い切っているほど。皆が知りたい、そして、身に着けたいと思っているこの「マーケティング」なる技能。それを私なりに解きほぐしていきたいと思う。(何回の連載になるのかわからない)
想定している内容は大まかに以下の通り
- その本質
- 構図(メカニズム)
- 心構え
- 本質を逆照射
- 価値の提供が目的
それでは早速、1の「その本質」から議論を始めてみたい。
マーケティング_その本質は「学習」すること
巷では、4P(Product Price Place Promotion)とか、広告手法、PR手法のようなスキルや手順などの目に見える対象をマーケティングといっている向きもあるが(実務では必要になるが)、ここはドラッカーやコトラーがいっている、その本質的なメカニズムに焦点を合わせてみたい。ドラッカーはいう「マーケティングとは販売をなくすことである」と。どういうことか。簡単に言うと、販売のようなプッシュ型の営業活動をしなくても、顧客が必要としている、または、価値と感じるものを提示すれば勝手に売れていく、そういう状態を作り上げるのがマーケティング活動の目的である、という意味である。
では、どうすれば販売活動をなくすほど顧客の要求・欲求・ニーズ・ウォンツなどを知ることができるのだろうか。
一言でいえば、それは、「学習する」ということに尽きる。では「学習」とは何か?ここでは、孔子の言葉とされている中国の古典『論語』の学習概念と世界的ベストセラーであるピーター・センゲの『学習する組織』を伴走役にまとめてみたい。二つの書籍の位置づけはこうだ。学習というそのメカニズムをズバッと切れ味良く解説する論語に対し、分析的・要素還元主義的に解説するのが『学習する組織』。前者を現場で忘れないための帰る場所(記憶のための粗画)として使い、後者を自分の中にマーケティング、その本質である「学習」というものの密画を描く、という使い方をおススメしたい。どちらか一方というより、両者をバランスよく使うといいと思う。
『論語』に見る「学習」
ではまず、『論語』。
その出だしは学而編といって、まさに「学習」のことから説き起こされる。「学びて時にこれを習う、また、喜ばしからずや」。意味は、「書籍や他者などから自分自身にそれまでなかった文脈を受け取る。そして、時折、それらの知識が、“わかった!そういうことだったのか!”と膝を打つような感覚で自分のものとして身につく瞬間が訪れる。(それはお風呂に入っているときかもしれない。道をボーっと歩いているときかもしれない。人と話しているときかもしれない。)ああ、なんと喜ばしいことではないか。」である。わかりやすくするためにかなり書き加えているが、そういうことである。(訳出は東大教授の安冨歩先生の解釈を参考にしている)
要は、学習とは自分自身を変える作業ということ。決して、自分自身の思い込みを相手、他者、書籍に押し付けてはいけない。そこが肝である。反論するにしても、多少変形するにしても、一度は自分以外のその文脈を受け入れてみる。もしかしたら自分の方が間違っているのかもしれない、と仮定してみる。それが大事である。そして、それがあるとき“わかった!そういうことだったのか!”となって身体に染み込む。孔子はこの瞬間を「学習」の「習」ならうといっている。「習う」は、復習のことではない。のちにもう一度、暗記した記憶を確かめる、そういうことでは決してない。
しかし、この一連のサイクルがとっても難しい。なかなかできる人がいないのも事実。だからマーケティングは難しいと思われてしまう。マーケティングを身に着ける困難さの原因はここにある。築いてきたそれまでの自分の人生を否定するように感じるのだろう。
人間はサイコロにはなれない
人はみな、色メガネをかけて暮らしている。そこに例外はない。養老孟子さんが「人間はサイコロにはなれない」と言っていたことがとても面白い。意味するところは、「誰しも必ず、ある論理にすがって生きている。論理すなわち秩序。人間とは秩序=文章・文脈・物語りで出来ている。一方、サイコロはランダム(無秩序)。要は、人間はランダム(無秩序)にはなれない。人間の発言や行動には必ず理由がある。それが社会的に不適合だろうが、他者から見たら不合理そのものだろうが。本人が自覚していようがいまいが。」人間はみな、自分視座の秩序を形成している。それを色メガネという。そして、養老さんは裏側から、人間はサイコロにはなれない、そういっているのである。鋭い指摘である。(人気があるのもうなずける)
ことほどさように、人間は先入観に凝り固まった生き物である。先入観で出来上がっているといっても過言ではないような気がしている。考えてみたら、人間社会そのものがみんなの先入観で出来上がっているのであった。お金など最たるもの。あんな紙切れ1枚が、1万円のモノと交換できるのは、みんながあの紙切れが1万円の価値があると思い込んでいるからでしかない。社会は人々の思い込みで会出来ている。
では、なおさら、マーケティングを身に着けるために「学習」することは困難極まる、ということになってしまう。もちろん、孔子が2500年前に人間が集団で暮らすための重要な着眼点として最初に「学習」というメカニズムを指摘したことからもわかる通り、それは自然には実現できないものなのであろう。簡単に人間社会に埋め込めるなら、孔子は、はなからそんなこと書くはずがない。難しいからこそ『論語』に記す必要があった。(ちなみに『論語』は孔子が書いたものではなく、その弟子たちが孔子の没後100年余りをかけてまとめていったといわれている)
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。難しいからといってあきらめるわけにはいかない。
諦めることに始まる「学習」のコツ
この点について、わたしなりにこれまで考えてきたこと、または、自身が経験してきたことをまとめる。
わたし自身の先入観を外す方法は、「自分が一番こだわっている考え方をいったんあきらめてみる」というものだ。ある人にとってそれは専門知識や専門技術かもしれない。ある人にとっては過去の実績かもしれない。前職での経験かもしれない。子育ての自信かもしれない。それらをいったん脇に置くのである。私の場合はやはり経験であることが多かった。それも成功体験が一番、自分を変えることの足を引っ張った。もう賞味期限が来ているにもかかわらずビジネスモデルを刷新できなかったのである。
こういうこともあった。それは新しい知識の吸収をためらうということ。基幹システムの知識が私にとっての新しい知識である時期があった。その時はお尻に火が付く形で乗り越えていったのだが、それでも振り返ると、なんとそれまでのやり方を変えることは難しいのか!と実感する。
そうした内面の危機に際し、ある社員からこんなことを教えてもらった。「こだわりを諦めることは悪いことのように感じるかもしれませんが、仏教では『あきらめる』を『明らかにする』というそうですよ。つまり、自分自身の認識をクリアに明晰にする、という意味でしょうかね?」と言ってくれたことがある。その時私は、「社長はこだわりが強すぎるんですよ。いったん、それを手放してみては?」という意味にとった。それで一人になって心の中でそれをやってみることにした。視界が開ける感じがした。それから、懸案だった物事はうまく回転し始める。実に奇妙な、しかし、心地よい体験だった。自分自身が刷新されたような。バージョンアップしたような感覚と言えばいいか。それでも自分は自分のままである。
(続く)