「疎外」がわかれば哲学がわかる

「疎外(ソガイ)」とは、自分で自分を置き去りにすること

「疎外(ソガイ)」は「阻害(ソガイ)」ではない。「阻害」とは阻止であり、邪魔すること。ある現象を抑止することである。一方、「疎外」とは、正確には「自己疎外(ジコソガイ)」である。一番大事な自分自身を置き去りにすることである。内省や瞑想で出会う、心の内側にある一番大事にしたい、大事にすべき「自分自身」を「自分自身」が「他者」のように扱ってしまうことである。いや極端には、「他者そのもの」にしてしまうことである。「自分の内面に他人を飼う」といってもいい。社会学の祖デュルケームは、「疎外」こそ自殺の原因であると『自殺論』で書いた。本当に苦しいのは、実際の他者からのけ者にされること(阻害されること)では「ない!」。「自分自身」が「自分自身の魂たましい」をのけ者にすること(疎外)である。それが近代人特有の苦しみの原因である。「疎外」とは、自分が自分をのけ者にすることである。

 

社会問題のほとんどすべての根っこには「疎外」現象がある

私たちが棲む近代社会は、個々人が、「疎外」を巡って格闘せざるを得ないという構造を持つ。皆、常にすでに「疎外」に悩まされるという構造に支配される。近代人にとってそれは空気のようなものである。誰も「疎外」圧力からは逃れることができない。

我々は、生き残るためにはお金を稼がなければならない。分業を基本とする近代社会においてそれは「座席争い」を意味する。いい学校・いい会社・いい人生というやつである。日本だけではない。世界中の人々が血眼でポジション争いをしている。貧しい国の人々が座席争いに参加することをこそ、日本のような先進国に住むものは良いことだとして疑わない。それのみが世界を幸福にすること、単純な図式を好むテレビ屋は自分自身が疎外に苦しむことに気が付かない。そして、世界に「疎外」の種を公共電波でまき散らす。

最近、マンションではサンマを炭火で焼くことなど想像すらできない。ちまたでは喫煙者を阻害することで疎外された自己を癒す始末である。大義を抱くと誰も、容赦なく、完膚なきまでに叩く。メディアサーカスが時折起こる原因も疎外である。疎外された近代人は、他者を痛めつけたくてうずうずしている。いつも吹き上がる寸前である。

オウム真理教という犯罪宗教も、マウントを取りたがる嫌みな先輩も、専門知識に逃げ込む気の弱いSEも、暴力やパワハラが染みついた頑なな上司も、構造的な原因はすべてこの「疎外」現象である。子供を東大に入れたがる熱心な教育ママ達も、政治の茶番に疑問を感じないマスコミも、根っこは同じ「自己疎外」なのである。

日本に500万人もいるかもしれないとされる引きこもりも、元気に会社に通っているように見えながら死にたくなる気持ちに囚われる都会の会社員も、すぐにいきり立つ煽り運転をするお兄ちゃんも、みな近代社会の構造的困難に苦しんでいるのである。「自己疎外」はこれほど人間を追い込んでしまう。時に一番大事な恋人を傷付けてでも、「疎外」された人間は苦しみから逃れる道を選ぶ。守るべきわが子を苦しみの底に叩き落としてでもガランドウな内面を埋めることを選択してしまう。疎外を理解しない親は、子供を苦しめているとは夢にも思わない。たしかに愛しているのである・・・

「疎外」は近代最大の問題である。ヒトラーもスターリンも、自己疎外の結果、空洞になった内面を埋めようとする巨大なエネルギーをもって世界を征服しようとしたという。「疎外」は時にハリケーンのようなとてつもなく巨大な悪のエネルギーを生む。しかし、それは今日、身近に見られる現象である。

 

全ては「近代社会というもの」の出現に端を発している

中世を呪術が支配する暗黒の時代、近代社会を魔術から解放された進化した時代、とする無邪気な歴史学者もいるようだが、それはあまりにも底の浅い見方である。近代は中世より進んでいるわけではない。人類が月に行けるようになったからといって、「今日の私」が幸せになったわけではないだろう。家事が楽になったことは、逆に、不幸の種を招き寄せることにつながったかもしれない。

それはフランス革命を機に起こった国民国家が、あまりにも戦争に強かったせいで、そのシステムが世界中に広がったことに端を発する。第一次世界大戦に始まる国民の総力戦が義務教育や市民の暮らしに至るまで規定していったのである。月~金、9-5時(ゲツキン・クジゴジ)という日常のリズムも、西ヨーロッパの戦争の事情が我々に押し付けたものである。こうした歴史を学校の先生も不幸にして知らない。

こうして「自己疎外」は気づかれない。すべての人々が苦しむ原因である「疎外」現象は、小難しい哲学の「専門領域」の奥の方に鎮座する。本当に必要とする、我々のような一般人の手にはなかなか届かない。

 

業績だけを盲目的に求める企業経営者はいきり立つ教育ママと同じである

経営者も投資家も、「疎外」の怖さを知らない。世界のアパレル産業の頂点を狙う日本のファスト・ファッション・ブランドの経営者も、モーターの世界でM&Aを駆使し1兆円を超える帝国を築かんとするエネルギッシュな経営者も、もはやキャンペーンから逃れられなくなった日本最大のEC複合体となった赤い本社の経営者も、原理的には社員を、社会を、「疎外」に追い込むターミネーターである。その構造は愛するわが子を死に追いやる愛情深い母親と変わらない。

みな、そこまでしなくてもいいのに・・・と薄々思いながらも真っ向からは批判できずにいる。多くの税金を納めてくれる日本を代表する優良企業である。見えない「疎外」現象など、自分が被害を被らなければ見て見ぬ振りを決め込むに限る。その支配力たるやすさまじい。

でもやはり「そこまでする必要はない」のである。いくら生き残ることに成功しても、「自己疎外」の種を増産していては、「たがために生き残る」のか。「生き残る」ことはやはり「生きる」ことではないだろう。

日本は「疎外」の震源地ではなかったのである。むしろその歴史的被害者である。なにもアングロサクソンの真似をする必要はないではないか。日本には日本の経営がある。私はそう思う。

 

世界の“わからなさ”から内面に触れるか、内面の“わからなさ”から世界に触れるか

突破口はやはり「内省」であろう。近代社会の外にある「世界」と触れるために、内面の奥深くにある「わからなさ」を感じること。内面の「わからなさ」を通じて「世界のわからなさ」に触れ続けることである。

大自然という「世界の神秘」に触れて、心洗われる体験をしたことがある人も多いだろうが、都会の日常に帰るとそれは虚しい思い出である。山登りや渓流下りも悪くはないが、一時の癒しにしてしまってはもったいない。「心が洗われる」とは、内面の魂と近代の外にある「世界」が触れ合うことによって現象する感情であろう。それは都会に居ながらにしても可能な作法である。

業績を追いかけることは悪ではない。業績がなければ「生き残る」ことはできない。世界から貧困をなくすのは企業が稼ぎ出す業績である。

問題はその速度である。社員や関係者の「自己疎外」に気づかぬふりをして、業績のみに走ることは、経営者としては思考が単純になり、ある意味簡単である。自分自身がターミネーターであることに耐え切れれば、複雑な意思決定のストレスからむしろ解放される。自身は所有するクルーザーで休日の「大自然」を満喫すれば常にリセットが可能である。社員の「自己疎外」は見て見ぬふりが出来るだろう。そしてまたターミネーターの日常に戻る。鋼鉄のスーツを羽織ってご出勤である。そうした「強い」経営者を資本市場の投資家も大好きである。どう見ても異常である。

かつて黒人奴隷を多数抱えながら、倫理の問題を説いていた篤志家と構造的には同じである。アメリカ建国の父ジェファーソンもリンカーンも奴隷を多数抱えていたという。ギリシャの哲学者アリストテレスも奴隷を抱えながら道徳の問題を考えた。時代はもうすぐ、こうした「徳のある人間」の構造的欺瞞を許さなくなるだろう。

「内省」を日常に取り入れなければならない。「内省」を伴うゆっくりとした速度で、近代に戦いを挑むのである。一方でエネルギーを創造しながら、一撃必殺で、近代市場のターゲットを捕獲する。それが21世紀の会社のあるべき姿ではないだろうか。

 

近代哲学はすべて「疎外」を巡る格闘の歴史である

近代社会の原理的な課題は、この「自己疎外」の現象である。ヘーゲルもマルクスも、哲学者と言われる人々はみな、この「疎外」という現象に取り組んだ。社会学が生まれたのも「疎外」があったからである。人文科学・社会科学のその前に、すでに「疎外」は現象していたのである。学問が現象に後から名前を付けたのである。

日本にも戦前戦後の時代に、近代超克論というのが流行った時期があるらしい。これも「疎外」を常とする近代社会を乗り越えたいという理論的挑戦であったのだろう。しかし、超克論は今や下火である。近代は超えるものではなく、賢く付き合っていくものだからである。

それは宇宙の星の運航に似ている。人間の力が及ばない、まさに「諸法無我」。自我を疎外したまま回り続ける世界の法則(ダルマ)である。

近代社会は神を殺して立ち上がった。信仰の自由・表現の自由を構造的に閉じ込めることで飢えから人類を救ったのである。近代とはそうした構造を備える社会である。それが「憲法=Constitution(コンスティチューション)=構造」の意味する所である(私はそれを『痛快!憲法学』に教わった)。

しかし、それが一人一人に「自己疎外」現象を招き寄せてしまった。殺した神の呪いは、私たち近代人の内面を「疎外」しようと狙っている。

 

「疎外」がわかれば哲学がわかる、知の探索のコツが掴める

私たちにできることは何だろうか。

まずは、私たち自身が棲む「近代」社会の構造を知ることだろう。その中心概念である「疎外」というメカニズムを知ることだろう。読書はそのためにこそするものである。勉強もそのためにこそ意味がある。努力は、自分自身の幸せのためにこそある。そうした基本に帰る時である。

「会社」とか、「社会」とか、「家族」とか・・・、「自己疎外」という概念で見つめなおすと見えてくるものがある。身近な親しい他者の「善意」の「不正」にも気づくことが出来るだろう。世の中にある、まがい物の「権威」に簡単に踊らされることもなくなるはずである。

近代社会を解くカギは「疎外」概念にこそあり。私たちが行う「知の探索」のコツは、「疎外」を理解するところから大きく開けるのである。幸せも同時に感じることが出来るようになるはずである。

内面も、社会全体も、答えのカギは「疎外」概念が握っている。それはいい会社を目指す多くの人々のキー概念でもある。