創訳のススメ_難解な哲学書も読みこなす独学の方法論

独学の方法論、私の場合

スマホ片手に本を読む。そこには「コトバンク」「筆順辞典」「Weblio」というアプリがいつでも開けるようにスタンバっている。ウィキペディアや翻訳ツール、その他の専門用語辞典も多少使うが、主なものはこの3つだけである。

私は哲学科を卒業したわけではない。大学では、主に身体を鍛えていた口である。しかし、創業からの20年、事業のために独学を続けている。創業から3年くらいは、毎日が試験前日の緊張感であった。「これって、毎日が一夜漬けみたいだな」そう思ったのを覚えている。その後も、何度も危機は訪れた。そのたびに、この独学方法論で乗り越えた。重要な案件を目の前にすると、私は自然と独学モードが全開になる。

創業当時は、なにせ、わからないことだらけであった。そもそもはじめは会社の作り方さえ知らなかった。まずやったのは、図書館に行って「倒産」の定義を確認したことである。それでも日々答えを出し続けなければならない。現場の社員からの質問に明確に返答する必要に迫られ続けていた。答えられなければ会社が潰れてしまう。そんな集中力で独学の方法を編み出していった。そのコツをまとめてみたい。

 

「ソウヤク」それが私の方法論

ひとことで言うとそれは「創訳」。読み方はソウヤクである。こいつ、辞書で調べても出てこない。私も、もしやと思いコトバンクで検索してみたがなかった。意味は「創造的に言い換えること」である。五木寛之さんの訳出本『カモメのジョナサン(新潮社)』版で目にした言葉である。それを少しアレンジした。誤解を恐れずに言えば「捏造」と言えなくもない。しかし、本来の意味の捏造とは全く違う。そこには一貫性という名の「正解」を必要とする。どういうことか。新しい知識を取り入れたら、即座に、自分自身の世界観に位置付ける。淀みない文章で創訳(ソウヤク)するのである。そのときのリトマス試験紙が一貫性。一貫性を最優先に自身の世界観メカニズムを再構成する。そのうえで、妥当性を検証する。現場・現実の事業世界で使えるか?とやるわけである。

 

テキストに執着してはいけない

頭を働かせるカギは、書かれたテキストに執着してそれを理解しようと力まないことである。読んだらいったん本の紙面から顔を上げる。そして、天を見上げるように空中に目をやる。そして、頭の後ろ側に世界メカニズムをイメージする。後頭部の背後に絵を描くのである。その絵を文章にする。自分自身が理解できる、納得できる、「淀みない文章」で表現してみるのである。

あたまで描いた絵をいったん「ポンチ絵」としてノートに書きなぐってみるのも効果的である。ポンチ絵とは手書きの概念図の事。その時、いきなり精密には書かない。フリーハンドで、定規など決して使わず、殴り書く。多色のペンを使ってもいい。頭に浮かんだ絵を紙面に叩きつける感じである。そして、ゆっくり文章に置き換えていく。

白版を使ってもいい。スケッチブックを使う人もいるそうだ。創業社長はよく大きな真っ白なノートを持ち歩いているようだ。私はよくあるキャンパスノートだが。ちなみに私はカラフルな大小さまざまなサインペンを多用するので、裏写りが激しい。なので、ページとページをノリで貼り付け、わざわざ厚みを持たせている。ゴワゴワした私オリジナルのノートである。

カギは自分が文章を作ることである。それまでの自分の人生経験で触れた言葉・文章を総動員して(思いめぐらして)、頭の奥から引っ張り出してくる。ああ、あれ何だっけ?なんて言ったっけ?あれあれ、あれだよ~、ううううううう、と独り言が出だしたらしめたもの。あなたも立派な創訳家である。立派な独学者の仲間入りである。

 

「ソウヤク」は理にかなっている

思い切った「創訳」を正当化する理屈はこうである。それは、世界には正解など存在しない、そこにあるのは一貫性と妥当性のみ!という事実である。「メカニズム一貫性」と「現実妥当性」である。誰の意見も「一貫性×妥当性」で判断されているに過ぎない。どこかにあるはずの正解を探し求めているわけではないのである。世界の天才たちの努力の歴史を見るとそれはわかる。

どんな天才でも間違えて解釈していることはある。どんな俊才でも真理のすべてが手の中にあるわけではないのである。「世界の真理や摂理はデカすぎてテーブルに乗らない」といったのはロシアの哲学者ミハエル・バフチンである。(コトバンクには文芸学者と紹介されていたが、そういう細かなことはあえて無視する。実際人にとっては重要なことでなはない。学会の座席争いには重要なことであろうが・・・)

そして、物事はそもそも多面体。ひとことで言い尽くすことはできない。あることを言葉にすると、即、別の側面が気になってくる。それが正常なメカニズム思考の姿でもある。言い切る人は、メカニズム思考ができていないことを告白しているに等しい。表現は、迷って当然なのである。世界の真理はそれほどに複雑で絡み合っている。Aの原因はBである、などと言い切れるシロモノではないのである。方法論と真理は分けて考えなければならなない。論理は方法論、世界は複雑・多面体。

 

論理だけでは世界は解けない

論理そのものが世界の真理を記述しきれないことはすでにわかっている。これはゲーデルという天才が「不完全性定理」というやつで証明済み。簡単にいうと、矛盾なき論理は存在しえないということ。論理は必ず矛盾を含む。それが不完全性定理である(と私は理解している)。私はこの定理そのものを、数式を使って説明するだけの力量を持ち合わせていないが、かのアインシュタインに「ゲーデルと散歩できることがこの大学にいる唯一の理由」と言わしめたほどの天才が証明し、いまだに論理的な破れは見つかっていないのである。実際人にはそれだけで十分である(勉強は続けたいが)。

形式論理学の排中律はいちゅうりつという定理を現実世界にあてはめるだけでも十分のように思う。排中律とは簡単にいうと、「ABであるがBではない」ということが言えない、という形式論理学の論理法則の一つである。そういうものは形式論理学の世界には存在しない、という意味である。論理は中間、中途半端を排する。でも、現実にはこんなこと、いくらでもありうる。「わたしはあの人が好きだけど嫌い」なんてことはそれこそ無数に見つけられる。「私はテニスがしたいけど今日は面倒だからしたくない」「食べたいけど食べたくない」「会いたいけど会いたくない」・・・人間の心は形式論理学には収まらない。他にもメノンのパラドクスやゼノンのパラドクスなども有名である。論理は現実には届かない。論理は方法論である。

 

「専門家」に振り回されないように

創訳(ソウヤク)をお勧めする理屈を補強する、という話しであった。言いたいのは、数学の世界だろうと、形式論理・記号論理の世界だろうと、専門家がその言葉を振り回していると、われわれ素人は、この人は私と違って世界の真理を知っているのかな、と思いがちだがそんなことはない、ということなのである。世界の真理はいまだ解明されていない。そこにあるのは「一貫性×妥当性」という基準のみ。大前研一が自信満々で大声を張り上げていても、頭から信じるのではなく、冷静に、着実に、「一貫性と妥当性」で自分の頭で検証すればいいだけの話なのである。どんなに頭のよさそうな人の前でも、卑屈になる必要はないのである。自身でソウヤクすればいい。いや、ソウヤクだけが正しい姿勢である。そのほかは主体性を放棄した依存でしかない。

 

「ソウヤク」は幸せになるための技術でもある

そろそろまとめなければならない。我々、会社で成果を上げようとする実際人には、現場現実の難題と、自分の頭で格闘する知の探索技術が求められているのである。その都度、その都度、意思決定して前にすすまなければならない。そうするのが使命である。そうして現実を少しでも善きものに変えていこうとする。その時、必要とされるのが「創訳(ソウヤク)」という独学の技術である。それは生きるための技術でもある。幸せになるための技術でもある。そう思っている。