「自分をつくる」が「世界をつくる」

「現世の自分は無意味である」とどこまで思えるか

旧約聖書を読んでいる。近代を作った西洋世界の根本教義であるキリスト教の、そのまた大本の思想が書かれた一番古い神との契約の書である。古代ユダヤ人がなぜこんな奇怪な書物を信じるに至ったのか、日本人としては不思議の一言に尽きるが、それでも近代はこの旧約聖書から始まった。

内容を一言でいうと、意思は神のみにあり、人間には自由意思などまったくない、そういう信仰である。神は身勝手であるが、世界はそうして出来ている、人間など神に従うしかない、そういう理不尽で貫かれている。人間の現世を徹底的に否定する信念。人間は神の意志の現われでしかない。神は私たちを生かすも殺すも自由である。実際、人間が神に皆殺しにされる記述が繰り返し繰り返し出てくる。砂漠という自然の理不尽を反映してのことなのか。

自分という生は、徹底的に無意味なのである。しかし、それが人間の甘えを断ち切り、のちに英雄的人間を生み出すことになる。パウロの新約を生み出すひとつの理論的原動力となる。中世末期、宗教改革を経て、私たちが棲む近代社会の根本教義を生み出した。ウェーバーの宗教社会学は今もちっとも色褪せない。

現世を徹底的に否定する教義が、現世での人間を輝かせる。真理はまさに逆説的である。

 

人はどこまでも時代相対的・地域相対的なもの

吉田松陰に代表される幕末の志士たちも現世の自分を徹底的に否定した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」三島由紀夫の心酔した葉隠れの結論である。現世を否定する思想が明治維新という偉業を成し遂げる。キラ星の如く輝く英雄たちを輩出した。

明治の勤皇思想は、キリスト教の予定説にとても似ている。その根本は全く異なるはずなのに、結論は「現世否定」で一致する。結果、人々を英雄的な行動に駆り立てた。人間の生きるエネルギー・モチベーションを極限まで高める理論体系を提供した。

中国でも同じような構造の思想で英雄が排出されてきた。宋の時代の文天祥の思想の源は「歴史」である。現世より「歴史」に認められること。それが文天祥の現世における驚異的モチベーションの源である。

歴史に現れる驚異的なモチベーションを渉猟すると、すべて「現世拒否」の構造を持つことに気が付く。しかし、その思想の物語りは時代相対的・地域相対的である。人間の生き方の正解は見いだせない。どれが正しい宗教か、なんてとても言えそうにない。そこに共通するのは人間の生きるモチベーションを生み出す抽象的な理論体系のみである。だとするならば、無宗教と言われる私たち日本人にも大いに参考になる。

カギは、徹底的に自分の生を無意味と知ることである。自分の感情を心地よくしてくれる、すがりつく対象を消し去ることである。自分が自分のあこがれの人として生きる覚悟をすることである。神頼みをやめることである。

 

勉強は何のためにするのか_生き方を定める

勉強は何のためにするのか。必死の読書は何のためにするのか。改めて考えてみる。それは、自分自身の生き方を定めるため、そういう結論が出てくるではないか。現世の損得を相対化し、時代相対的な自分自身のモノの見方を捉え返し、どう生きるべきかを「あえて」定めること。自分自身の生きるエネルギーが枯渇しないように、内側から湧き上がる熱情を育てること。それが勉強する意味であろう。

受験勉強に象徴される退屈極まりない「お勉強」ではない、湧き上がるエネルギーのためにする知の探索。なにが正しいかではなく、何が自分を鼓舞してくれるのか、何が公正な生き方なのかを学ぶ真の意味の勉強。先行き不透明な21世紀の日本において、本当に求められているのはそうした型にはまらない勉強である。しかし、勉強を重ねるたびに元気になる、そうした勉強である。

日本人にありがちな「すがるもの」を探す勉強ではない。自分自身が自立するための勉強である。現世では何物にも依存しない、そうした強く現象するための理論武装をするための勉強である。読書である。拝める神を探すのはいい加減にやめるべきである。近代に残る世界宗教に共通する原理は「神を拝むことを禁ずる」というものである。日本人の神に対する感覚とは180度逆なのである。神はすがる対象ではない。支配される力である。近代にとって一番大切なのは「断念」という名の諦めなのである。甘えた心を断ち切る「ものの見かた・考え方」が、自分自身を信じられないような高みに上らせる。それが歴史に見る人間の真理である。

 

21世紀はことばの時代、知識ロマン主義の時代

人間はどこまで行っても時代相対的・地域相対的である。普遍主義なる思想も世界にはあるにはあるが、それは全体主義という怪物を生む羽目になった。やはり、ゆるぎない正しさを求める思想は間違っているのであろう。だからといって、すべては相対的であるという相対主義もなんか違う。やはりそこには、何らかの理論体系はあるのだろう。抽象度の高いレベルでの、人間が生きる上での骨格のようなフレームワークはあるのだと思う。私たちはそれを歴史の中に探すしかない。歴史上の英雄たちに、そのエネルギーの源を探す。

では、21世紀のこの日本、および世界で、私たちはどう生きればいいのか。21世紀は戦争の世紀ではないだろう。また、戦争の世紀にしてはいけない。21世紀は、ことばの時代・知識ロマン主義の時代である。願いも込めて時代を眺める。

無意味な現世はますます複雑化する。それは知識が織物のように重なり合い続けているからである。ことばを重ね続けなければ、人間は意味を感じることが出来ないからである。論理的に無意味な現世も、ことばによって意味を現象させることはできる。現象しては消え去る運命ではあるが、一瞬の連なりが、人間に生きるエネルギーを注ぎ続ける。この世界は無意味だからこそ、ことばで意味を生み出す必要があるのである。

ことばは本質的に理論的妄想である。仏教でいう「唯識」は世界の真理である。仏教は宗教というよりも科学に近い。理論物理学における量子論は、ほとんど「空」の理論の精緻化であろう。科学も本質的にことばによる重ね書きに過ぎない。そういう意味では、宗教も科学も、理論的妄想の極致である。

しかし、世界はその妄想が作り出す。私の中に芽生えた小さな小さな妄想の種が、やがてひとつの流れを形成し、大河に育つことがある。世界はそうして変化してやまない。ドラッカーはそれをマーケティング&イノベーションということばで表現した。終末史観だろうが、循環史観だろうが、真理は仏教の「空」にこそある。「空」を前提に、知識ロマン主義に身を投ずる。

 

時代を前に進める主役になろう

世界はSDGsなるものを妄想した。持続可能な世界を作ることを妄想し始めた。IT革命・グローバリゼーションの本質は、人々の善きこと・善き思いが露わになるということだろう。人間の悪だくみは一瞬で白日の下に晒される。SNSという構造は人類を、集団的英雄に追い込む可能性をもつ。

湾岸戦争以来、世界は基本的に衆人監視のもとにある。今だ過渡期ではあるが、世界の独裁者は以前のようには簡単に人を殺せなくなった。世界は複雑化し見えにくくなったともいえるが、一方で切っても切れない関係によって結ばれてしまったともいえる。未来は後者の力学に期待すべきである。私たちも、後者の力学を加速させるほうに加担したい。

インターネットの時代は、私たちの誰もが主役になれる時代である。公正な知識を積み上げ、自身の内面からことばを紡ぐことによって、誰もが世界につながることが出来るようになった。イノベーションの濫觴たる初めの一歩を、誰もが供給できる資格を手にしたといっていい。生きることは原理的にマーケティング&イノベーションになったのである。ひとつのことばが世界を変える。しかも、善きことと人々が思う方向に変えるのである。善きと思わなければ、人々は反応しないだけである。人々は善きことに反応する。

 

生きることはすべて事業である

近代はお金を稼がなければ生きいけないメカニズムである。しかし、ことばという妄想がそのエネルギー源でもある。この二つを結びつける事業という形式がその真価を問われる時代である。お金儲けは事業の直接の目的ではなくなった。それは結果でしかなくなった。直接の目的はことばによる意識の変革である。気づきの種を撒くことである。「濫觴らんしょう」とは、大河を生み出す最初の支流の、そのまた支流の一滴のことをいう。大きな変化も、すべてはひとつのことばから始まるのである。

だから、ことばにどこまでもこだわるのである。ひとつの小さなことばに全力を集中させるのである。自身の阿頼耶識あらやしきに薫習くんじゅうされる世界の摂理の蓄積を、渾身の力でロゴスに託す。それが事業であり、21世紀に生きることを意味する。

 

現世の自分は無意味である。それは理論的な帰結である。真理である。しかし、人間はことばで意味を「感じる」ことはできるのである。それが私たちが死なない理由である。無意味な現世に意味を現象させる。それは時代という相対的なカギとカギ穴を一致させる行ぎょうである。

「ことばで自分を作る」が「よき世界を作る」。それはきっと世界の真理である。