人間という生命は言葉で現象する

ことばで表現することで人間は元気になるらしい

「よみもの」を書くようになって気が付いたことがある。それは、1本書き終わるごとに自分が元気になるということ。とくにうまく書けたときは心が弾む。ふさわしい言葉が見つからなかったときは心がちょっと傾く。そして、いつしか、そうした「元気」を探し求めるようになった。

でも、元気ってなんだろう?ちょっと表現が雑だ。「私」という輪郭が浮かび上がる感じだろうか。自己が、存在を確かめているという感じ、というべきか。自己という存在様式は、世界に触れる表現を探り当てることで、さらに光を強く放つ気がする。光は、存在の影である「死」を、対照的に黒く、見えにくくしてくれるのか。

どうやら、人間という生命は、ことばで現象するものらしい。良くも悪くも、そうした、世界の法則につながるメカニズムを有しているらしい。人間はことばで元気になる存在のようだ。

 

過去の記憶を鮮明なイメージを伴い表現できると、その時の感情ができたてのパンのように、ホカホカ伝わってくる。自分があたかも、近くでその光景を、のぞき込んでいるような錯覚に襲われたりする。

ふとしたすれ違いざまの挨拶を、立体的に表現できると、なぜかその無意味が、意味を持つ。お弁当屋さんの前の通りの、街の生活音が聞こえてきたりする。そうした時は、自然と笑みが出てしまう。恥ずかしさもまた心地いい。

家具という商品を、いまそこにある物自体としてではなく、思い出される幼いころの映像を伴う、“物語り”として再現映像化できると、私たちの開発した商品に、想起力というパワーが込められていく。物自体が、言葉というオーラをまとう。その時、商品は、交換価値を超越する。

ふとした瞬間に目に入る、道端の紫陽花や、窓からのぞく朝日といったような日常の一こまを、うまく言葉で表現できると、私たちは世界につながれる。そして、なぜだか、そこにいないはずの読者までが、その空間に存在するような錯覚に引き込まれる。瞬間移動のテレポーテーションのごとく。

何かの時事的なニュースの背景を、的確な言葉や文脈で繋ぐことができたときは、社会全体が、メカニズムとして模式化されたように感じる。独立した存在として知っていただけのものが、関連性をもって繋ぎ合わされる。「風が吹けば桶屋が儲かる」ごとくの連鎖が始まる。これも心躍る瞬間だ。

世界史を、今の私や私たちの問題の原因として、淀みない文章で表現できた時、教科書にあった、ただのインクの「シミ」が、自分とおんなじ人間の喜怒哀楽として動き出す。「なんでこの時、こいつは、こんな決断をしたんだよ。もし、違う決断をしていれば、現代社会はこうも酷くなってはいなかったかもしれないのに・・・」。こうした悔しい感情が、世界史の理解を格段に進歩させてくれる。一度聞いたら、なかなか忘れられなくなる。年号の暗記などまったく必要ない。

日本史だってそうだ。自身が、日本人としての誇りを抱けるように、「私」につながる“物語り”として表現しなおしてあげると、退屈はたちまち昂奮にかわる。「イイクニツクロウ鎌倉幕府」的に頭から暗記するようなやり方を放棄すると、日本史は、「私」を主人公とする壮大な大河ドラマにしか感じられなくなる。勉強って、こんなに楽しかったのか!と膝を打つこと間違いない。

例を挙げればきりがない。貧乏俳優が生活ぎりぎりで劇団員を続けるのも、音楽家がその活動をどうしてもやめられないのも、世界にカラオケが普及していったのも、ことばが自身の生命を鮮明に浮かびあがらせてくれるからに他ならない。自身の存在が、くっきり認識されると、なぜか人間は元気になる。私たち人間が、世界の一部だからということか、人間は言葉で出来上がっているということか。

 

「ことば」は言語に限らない

もしかしたら、「ことば」とは、言語に限らないのかもしれない。音や音楽、匂いや香り、味や肌触りさえも、「ことば」なのかもしれない。五感を刺激する、すべての媒体が、「ことば」となる。

蚊取り線香の匂いが、田舎の両親を思い出させてくれることもある。格調高い高級なお香は、京都のお寺に瞬間移動させてくれる。お寺の畳の匂いまでもが思い起こされる。修学旅行の記憶が、不安な思春期の頃の胃の痛みまでも蘇らせる。

おふくろの味は、いくつになっても懐かしい。塩気の効いた焼きのりで巻かれたおにぎりを食べると、今でも、少年時代の安らぎに満たされる。母のおにぎりを握るときの湿った手の平を思い出す。おっと、涙腺も世界の一部なのだろうか・・・

洗い立ての白いコットンのシャツを羽織ると、なぜだか戦闘モードのスイッチが入る。女性にとってはメイクがその代わりになるのだろうか。前頭葉に血液が流れ始める感じだ。目の大きさも2倍に拡張する。休日、家にいると、ほとんど瞼が下りているのに・・・、不思議だ。

 

ブッダもことばにこだわっている

釈尊(ブッダ)は、人間の生は「苦しみ」であるといった。しかし、それで人々を突き放しただけではない。「八正道はっしょうどう」という悟りへの道筋も同時に示してくれている。そのなかの3番目「正語」。しょうご、と読むが、正しい言葉を使いなさい、という意味だ。8つしかない平安への生活スタイルの一つが「正しいことば」というのが、最初、いまいち腹落ちしなかったのだが、いま、それがわかる気がする。正しいとは、おそらく、世界と一体化するという意味であり、淀みない文章ということでもあり、身体が喜ぶリズムを帯びるということでもあるのだろう。人間という生命は、そうした「ことば」を通じて、よりよく現象する。人間というメカニズムは、世界の法則につながりたがっているシステムなのかもしれない。人間とは、「ことば」をトリガーに、世界の法則が、意識や感情として現象しているに過ぎないものなのかもしれない。生命とはおそらく、光そのものなのである。

そう思い、言葉にするだけで、なんだか元気になってきた。「よみもの」は、それだけでセラピー効果を有するのだろう。朝のこの、「よみもの」に没頭する時間が、どんどん好きになってゆく。さあ、元気満タンだ。そろそろシャワーを浴びて会社に行こう!