マネジメント_困難の構造(3) 「カッコいい」二枚目俳優とは真逆のその作法
「二枚目俳優」 定番のイメージ戦略
西島秀俊、小栗旬、高橋克典、佐々木蔵之介、江口洋介、堤真一・・・日本の二枚目俳優の共通点は、マネジメントの作法とは180度「真逆」の役柄を演じ、カッコいいイメージを固めていったことにある。
それは端的に、こうだ。
「俺は部下たちと共にある。」
「俺は現場をこそ愛する・・・(「あの人」とは違って)」
「俺は部下たちの気持ちがわかる愛情深いリーダーでありたい!」
「いやいや、そんなことないですよ」と謙遜しながらも、背中でそんなメッセージを発するミドルマネジャー像である。警視庁捜査一課の○○班の班長だろうが、何かあやしげな秘密組織の現場リーダーだろうが、大手電機メーカーの課長や係長だろうが、その構造はみな同じである。そして、悪役がその上に陣取る。トップマネジメントはたいてい悪役である(IT社長がいいイメージで登場することは皆無)。「あの人」とは違って・・・、の「あの人」とは、ミドルマネジャ―のその上の「仕事のできる上司」のことである。「上のほう」には必ず腹黒そうな、目つきの悪いベテラン俳優が配される(もちろん二枚目俳優演じる主役を陰で支えるナナメ上の上司も同時に登場することが多いのだが・・・)。二枚目俳優演じる熱血ミドルマネジャ―は、その「悪役」の鼻を明かすのがストーリーの主旋律である。いろいろ苦労はあるけれど、最後に必ず「正義」は「勝つ」。水戸黄門の時代から全く変わらない大衆向けテレビ番組の二枚目イメージの法則(=ヒットのパターン)である。
それはマネジメントの真理をひっくり返した像
でもそれは、社会のマネジメント無理解を映し出す鏡像でしかない。日本社会(日本だけではないと思うが・・・)に巣食うマネジメントがぶつかる「困難の構造」を逆照射したものにすぎない。
人口の大多数は現場で頑張る「二枚目俳優」の「部下たち」である。その層が視聴率を握る。その者たちの感情を素直につかむことがヒットの秘訣なのだから、二枚目俳優の立ち居振る舞いはこの層を喜ばすことが求められる構図である。いろいろな困難に打ち勝って「部下」を愛することをこそ最優先する葛藤が描かれる。
しかし、現実社会での帰結はいつも逆向きである。部下を愛する気持ちと全体を守ろうとする思考とがトレードオフを起こすのは同じだが、結果はいつも逆向きである。現実のマネジャーは、必ず全体の方を優先せざるをえない。時に部下の感情を後回しにすること、それこそが部下を守る鉄則である。
だから、マネジメントの「ほんとうのこと」では、二枚目俳優演じる熱血中間管理職の結末は、いつもテレビとは逆になる。部下たちの感情を最後は結局蔑ろにしてひとり孤独に現場を去っていく。部下たちの白い目を背中に浴びながら・・・
ミドルマネジャーの使命
二枚目俳優演じる主役の特徴は「部下たちを愛する熱血漢」である。でも、現実のマネジメントはそれを許してはくれない。
正しいこと(部下を愛する)をすることがマネジメントではない。
ものごとを正しく行うことがマネジメントである。
ゆえに、現実のミドルマネジャーの使命は、
「トップの意思決定をサポートすること」、これである。
これをやらないミドルマネジャーがトップに信頼されることはない。
構造を理解できないで感情に従うミドルをトップは裏切り者とさえ感じてしまう。
ミドルは、決して「部下を愛すること」を第一義にしてはならない。
これは構造の問題である。
部下を愛してはいけない、のではない。
共同体の内部のように部下を愛することがすべて、とはならない、そう言っている。それが近代社会における成果を上げるための「組織マネジメント」の必然なのである。(それでも部下を愛する余裕を持ちたいものだが・・・)
近代社会においてマネジャーが「ほんとうの意味」で責任感を持ち、部下をも含めた社会全体のために成果を上げようとするならば、マネジメントは現場の部下たちの感情を最優先にしてはいけない。感情の前に考えなければならないのは、全体構造のメカニズムの方である。
先にメカニズムありき。
組織が置かれた近代社会(マーケットや行政機構)での位置を見定める。
トップがその船頭役である。
だから、トップの意思決定サポートを優先せざるを得なくなる。
タイタニック号の悲劇を避けること、それがトップの役割であるのだから。
だから、「中間管理職」の意識は先に上を向く。ベクトルは先に上を向くのである。次にヨコ。そして、ようやく最後に下を考える。部下の感情は最後に気にする事柄「でしかない」。
だから、優秀なマネジャーこそ現場に煙たがられる。
煙たがられるマネジャーこそ優秀の証である。
構造的にそうならざるを得ない。
マネジャーの心はいつも引き裂かれている
それはマネジャーの素直な感情とも逆を向く。もちろん部下たちの素直な感情とも逆を向く。だから、真摯に「事実」と向き合うマネジャーの心はいつも矛盾にさいなまれることになっている。矛盾と戦っているマネジャーこそ優秀なマネジャーである。
近代社会というメカニズムに乗せることを優先せざるをえない「近代社会のエージェント」たるマネジャーの最大の使命は、資本制生産システムの回転に組織の動きを「順目」で合わせることである。あえて表現すると、それは組織を、マルクスのいう「疎外状態」に置くことである。巨大な近代社会のメリーゴーラウンドに組織の動きをピタッと合わせる。部下の感情よりも資本の動きを優先させるのである。
組織はそれではじめて生きることを許される。近代社会に押しつぶされずに済むのである。
代わりに、部下とトップとの間に立たされたミドルマネジャーの心は常に矛盾に苛まれることになる。いつも自分の感情とは逆向きの決断をさせられる。
二枚目俳優が演じるテレビの主役は「下」を向き、ほんとうの優秀なマネジャーは「上」を向く。
構造的には「上」を向くのが正解である。
「上」を向くのが近代社会のマネジャーの「心的モデル」である。
これには誰も逆らえない。ほんとは二枚目俳優であっても、である。
マネジメントの存在に気が付かない現場の人々
人口の大多数を占める第一線の部下たちは、基本的にこの構造に気が付いていない。いや実は、薄々は気が付いている。そんな「こうぞう」が自分の周りに空気のようにまとわりついていることを、幼き頃から感じてはいる。でも、言語化して明晰に理解する機会がない日本社会では、「それ」を自覚することは困難である。
中学校や高校などのチームスポーツでキャプテンなどを経験したことのある人ならば、少しはこの矛盾した状態を感じているかも知れないが、それも人口比で言ったら少数派である。大多数の人々は幼き頃からいわゆる「フォロワー」。キャプテンに文句を言いながら渋々従ってきたのでしかないのである。その「こうぞう」からくる空気をなんとなく感じてきながらも、いつもマネジャーを責め続けてきた。近代社会の困難の構造の責任を、ズーっと「マネジャー個人の責任」と思い続けて社会人になった。キャプテンは今、上司という名で呼ばれている。
トップマネジメント(=近代)への反抗心が視聴率を上げるメカニズムとなってしまう悲劇
近代社会は人間の心を「疎外」するメカニズムである。近代社会の原理たる資本制生産システムは、人間の心を資本の論理に従わせる力学である。優先はいつも社会全体のメカニズム。人間の感情は二の次である。それが、わたしたちが棲む近代社会の原理である。
だからこそ、人々は皆、それに抗いたいという潜在的な欲求を抱え込むことになる。それは生まれた瞬間から必然的に巻き込まれる宿命となる。
二枚目俳優が演じる役柄を「カッコいい」と思いこむ心の構造は、実は、この近代社会の「疎外」のメカニズムに抗う心の投影でしかない。
優秀なテレビのディレクターや電通などの大手広告代理店は、このことを知っている。
ヒット作の製作者たちは、人口比の一番大きなゾーンである組織の現場層の人々に向けて、感情の釣り針を仕掛けるのみ。近代社会に対する潜在的ルサンチマンを逆手にとって、その構造を二枚目俳優の上司(多くは経営者である)に投影させるというエサを仕掛ける。そして、その「悪人=近代社会の原理を体現したデーモン」を懲らしめる立ち位置に、もともとカッコよかった容姿をもつ俳優をあてがうのである。「スター」はこうして作られる。
マネジメント困難の構造
でも、このメカニズムの存在が、実際にマネジャーに昇進した人の心を引き裂く方向に作用する。「俺は、私は、現場の部下と共にいたい」という殺し文句を口にしたい感情を、事実は許してはくれないのである。
優秀な現場第一線の部下と優秀なマネジメントのベクトルは180度真逆を向いているのである。
この構造に気が付けない新任マネジャーは、いつまでたっても上司の信頼を獲得できない。トップ経営者の信頼は、この「困難の構造」の理解にかかっているからである。それで今日もまた、部下たちを連れて会社批判のために飲みに行くことになる。飲むのが苦手な若い人ならば、家に帰って二次元世界に逃げ込むことになろう。ファインチューニングの方法は人さまざまであろうが、そのストレスの原理はみな一緒である。
誠実なマネジャーの内面こそが近代社会の主戦場である
新人マネジャーは、そのポジションから来るストレスに耐えられず、すぐに「カツノリ」や「ニシジマ」に逃げ込もうとする。要は「下」の感情に寄り添おうとする。
ミドルマネジャ―は「上」をこそ支えなければならない。「下」が矛盾に苛まれることはないが、「上」は常に矛盾と格闘している。「上」にだって「下」と同じ感情はあるのである。でも、近代という構造がそれを許してくれないのである。
もちろん、完全にデーモンになってしまった「上」もいる。そういう人の内面はある意味「穏やか」である。近代という大義のもと「下」をいじめるパワハラ常習犯の心は穏やかである。
しかし、真摯に事実に向き合おうとする「上」の内面は、逆にグチャグチャである。「感情」と、「すべきこと」が真逆を向き続けるのだから、眉間にしわが寄って当然である。出口(内面を穏やかにする方法)は、愛する部下をいじめることしかない。でも、真摯な「上」には、それができない・・・。
自分の感情に都合よく事実を捻じ曲げる動物である私たち人間は、近代社会からくるマネジメントの困難の構造より、順目の感情を美化してしまうものである。
それと戦うか、あっさり負けを認めるか、それは「上」の、ほんとうの意味での「誠実さ」にかかっているのだろう。それは終わりなき戦いである。
誠実なマネジャーの内面こそが、近代社会の主戦場なのである。
マネジャーである限り続く、永遠の戦いである。
つまり、マネジャーを辞めるとは、「敵前逃亡」である。
辞めることを選択したマネジャーに対し、部下たちは「愛情を選択した」として褒めてくれるだろう。でも、自分の「誠実さ」は自分を許せないだろう。
それが近代社会のマネジャーの仕事の本質である。
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マネジメント困難の構造は浮かび上がっただろうか?
私も二枚目俳優に憧れていた頃がある。マネジャーを体験するそのもっと前の若いころ、母が見る水戸黄門や暴れん坊将軍に憧れた。
でも、次第にそんな「ヒーロー像」を物足りないと感じるようになっていった。ファインチューニングがファインチューニングではなくなってきたのであった。それはマネジメントを体験する過程とパラレルである。
「あいつが言ってるセリフは現実世界では通用しないぞ」
そんな感覚がマネジメントの存在に気が付いていく契機とセットだったように記憶する。そして、その後、この会社を創業する経験の中で(ドラッカーやマルクスやウェーバーを伴走役に携えて)、次第にその輪郭ははっきりしたものになっていった。うちの若いマネジャーも、いつも「ココ」で「コケる」のである。「コケる」理由を言語化できずに、果たして何人が去っていったことか・・・この文章はそれへの罪滅ぼしでもある・・・
自分自身も、認知的整合化の動物であることを、人はなかなか認めることができない。わたしもそうである。
つまり、自分自身も、自分の感情に都合のいいように現実を捻じ曲げる動物であることを、人は認められないものである。
事実(近代社会のメカニズムに否応もなく晒される事実)を知るそのはるか手前でマネジメントを先に嫌いになる、そういう構図である。
いつも繰り返される光景である。
その構造を、「二枚目俳優」の存在が補強してしまう構造がまた一方に存在しているのである。これは何も日本に限ったことではない。アメリカのドラマにもある、おそらくは近代普遍のアポリアである。
マネジメント_困難の構造、第3回目は、身近な視座に立ち返って考えてみた。
マネジメントとは矛盾のマネジメントである。
それが困難の構造の本質である。
それをしっかり確認すること。それが成果を上げる基本である。
近代を賛美しているのではない。
逃れられない私たちが置かれた構造を、相対化し、逆利用するための処方箋の原理を解き明かしたいだけである。