わたしの好きな時間

わたしの好きな時間

「精読会」それがわたしの一番好きな時間

今日も午後から社内で精読会を行う。いまは、安冨歩さんの『ドラッカーと論語』を読んでいる。私を入れると総勢7名。とても楽しい時間だ。私はこの時間がとても好きである。

社員からは「忙しいところすみません」的なことを言ってもらうこともあるが、実は私が一番楽しんでいる。できるだけこの時間を増やしたいと裏で画策しているほど。計画がある朝は、自然と笑顔になってしまう。こんな気持ち、他には日曜日の朝に、味の濃い卵焼きとビールを用意してネットフリクスを見ようと「プシュっ」とやるときくらいだ、たぶん・・・

何がそんなに楽しいのだろう?自分でも理解したくて、この文章を書くことにした。

 

精読会には組織を一つにする作用がある

まずは、何といっても参加してくれているひとりひとりだろう。皆が学ぼうと集中しているのがわかる。かなり頭が疲労するだろうに、誰一人、集中力を切らさない。今は6時間もぶっ通しでやっているにもかかわらずだ。感心を取り越して凄みすら感じる。うちの社員のエネルギーはすごい。私も影響されっぱなしである。自然と気持ちが引き締まる。「俺は社員に励まされているのだなぁ」と思う瞬間である。うん、間違いない。私だけ遊んでいるわけにはいかない。書いているだけで襟が正される。これが心地いい。

2番目は良書を精読するという活動そのものであると思う。一行一行、時には一字一句立ち止まって論を補い、膨らませていくので、めちゃくちゃ理解が進む。これまでの断片的な知識がひとつのメカニズムに統合されていくような快感を得られる。当然、現場の仕事にも話が及び、それらを咀嚼する言葉が手にできる。まさに、膝を打つような「わかった!なるほど!」の連発である。私は本の文脈を解説しながら、内心、何度も膝を打つ。あたかも昔からすべてわかっていたかのような態度をとりながら。でも、一番学ばせてもらっているのは私です・・・、そういつも頭を垂れる気持ちになる。皆さんの時間を使って私が一番得をする。すみません・・・

そして、もう一つは、なんといっても同じ本を読むと土台が共通化されるということ。仕事をやるうえでのプラットフォームが作られていく感じだ。本を読みながら現場の仕事に話が及ぶと、理解の土台が分厚くなるのだ。仕事がとてもやりやすくなる。「あれだけどさぁ」「ああ、あれね」「そうそうあれってあれだよね~」「うんそうね」で済んでしまうほど。ちょっと戯画化しすぎだが、そういいたくなるほど仕事がスムーズに進むようになった。私も精読会のメンバーとは仕事がとてもやりやすい。これも快感を生む原因のひとつだ。

ここでふと思った。これだけではない気がする。もっともっといい効果が生まれているような気がする。精読会がすべての原因だというのは言い過ぎだろうが、間違いなく好循環のメカニズムに追い風である。

会社を20年やっていて実感することでもあるのだが、会社には好循環か悪循環か、しかないというとだ。部分を切り離して、いい会社とか悪い会社とかいうことはできない。よく日経新聞などで、いくつもの項目を点数化し、上場会社ランキングなるものをやっているがやはり無理がある。動いているものを静止画として箱に収めようとしてもダメである。会社はやはりあるひとつの流れである。

そうした観点で見ても、とても良い空気が醸成されていくのを感じる。それは言葉を超えたなにものか、である。言葉以上のパワーのようなものだと思う。

 

安冨歩さんの『ドラッカーと論語』はすごい

選んだ本も優れているのだろう。論語とドラッカーという世界の名著を両取りで理解しようなどという大胆で本質的な書籍である。著者の安冨さんに感謝である。

安冨さんは経営者ではない。しかし、ここまで経営の本質を掴まれているのがほんとにすごい。経営者でないのにドラッカーをここまで理解されている人を私は知らない気がする。ドラッカーはアメリカの経営学会ではほとんど無視されている存在らしい。読者のほとんどは現役の経営者である。しかし、その数は実に広い。名だたる大会社の経営者がみな読んでいる。しかし、一歩、経営者界隈の外に出るとドラッカーを評価する人は少ない。

それを大学教授である安冨さんが取り上げている。最初、とても意外な気がしたものだ。正直、学者にはドラッカーを理解することはできないと思っていた。専門的な知識だけでは太刀打ちできないから。ドラッカーはそれ自体が総合学問である。

安冨さんはその著書の中で、論語とドラッカーマネジメントの神髄を「学習」という切り口で見事にその共通項を取り出して見せる。複雑系科学やサイバネティクスの研究者でもある安冨さんならではの鋭い視点だと思う。ありがちな専門バカではない。本物の学者の凄みを感じた。

その中で「学習」という機能を人間が人間であり続けるための必須の機能だと定義する。要は学習なきところに人間はいないのだ。大胆不敵とも思える主張にも感じるが、それが孔子が説いた論語の神髄であり、全体主義の防波堤として構想されたドラッカーマネジメントの神髄なのだから仕方がない。本気で経営をやろう、本気でいい会社を作ろうとしたら「学習」という機能を見ないわけにはいかない。時間がかかっても、多くの非難を浴びようとも、どうしても組織に埋め込まなければならないのである。学習とは内省を通じた自身の色メガネの相対化である。自分を変えていくことである。「固くな」の逆。パワハラや劣等意識の真逆に位置する作法である。

 

精読会は孤独を癒す

ここでまた、精読会に参加してくれているメンバーの顔が浮かんできた。みな実に「学習」に前向きである。自分を変えることに躊躇がない。毎日のように新たな“わかった!”を生み出している。感性が実に瑞々しい。

そうか、だからこそ楽しいのだ。精読会のたびに新しい発見ができる。自分の世界観が大きく広がる。未来への夢が手の平に乗りきらないほどあふれてくる。そんな実感を得させてくれるからだろう。

わたしは一人ではない。孤独な経営者では決してない。精読会はそんなことを思わせてくれる時間である。さて、今日もこのあと精読会だ。じつにワクワクする。早くシャワーを浴びて会社に行こう・・・