es の正体_芸術❼
ことばにしてしまう・・・「凜」を呼ぶ内的衝動
esは、感情ではない。
esは、理性ではない。
esは、まだ、ことばになっていない。
人間の知能の、一番奥の奥に鎮座する「はず」の何ものか、である。
わたしたちの身体の中心部分、ちょうど胃とかミゾオチらへんで感じる、ことばにしたいという蠢き・衝動、それがesである。ことばを絞り出そうとするときに頼る自分にしか聞こえない「逸脱」しようとする「声」である。これまでの全記憶、経験、知識、感性、そして、遺伝子や前世の記憶までがすべて混ざり合ったなにものかが持つあなただけのリズムである。生きるちからのミナモトである。仏教でいう阿頼耶識(アラヤシキ)である。芸術作品と呼べるものは、このesを刺激する力を備える。いや、このesを刺激するものをこそ芸術作品と呼ぶ。
esがもっとも躍動するのは、美しいものに触れた時である。だから、「美しいもの」とは、esが躍動するもののことである。自然とか生命とかリズムとか、近代という思考停止にハメ込む内的装置(理性)を脱臼させる「ん?」という違和感である。大海原を見て呆然と立ち尽くすときの内面である。
esが蠢くときを日本人は「凜」ということばで表現してきたのだと思う。esが蠢くと、背筋がしゃんとして、身体にエネルギーがみなぎる。気持ちで体幹運動するような感覚である。みな、その瞬間を望むものであろう。
esは、言語化の衝動。言語化以前的な知から、言語化へと至る、ちょうどその中間に橋を架けようとする「もがき」である。
ことばにしたい、というより、ことばにしてしまう、内的衝動である。
esは秩序化の衝動_それはエントロピーに逆らう生命現象
esは、ことばにしてしまう衝動そのもの。つまり、秩序化の衝動である。esは「低いところから高いところに水が流れる」ことを許容できないし、「石は水に沈むこと」を望む「生命」である。esはサイコロにはなれないのである。完全なるランダムをesは受け入れられない。
esは、エントロピーに逆らう生命現象のミナモトである。物語り以前の、物語りを生成し始めるエネルギーである。人間がサルから進化した、その飛躍の原動力である。人間が人間であることの根本である。
esは、死に逆らおうとする生命の本質である。わたしたちは皆、いずれ消えてなくなる存在であることを知っている。生命は本能的に死を恐れる。恐れているのは、わたしたちのesである。esの蠢きが、恐れを感じさせる正体である。
他者との連帯(ソリダリテ)
esは、esに、共鳴する。
esは、esと、出会いたっがている。
人がソリダリテ(連帯)を感じるのは自分のesと他者のesのリズムが一致したときである。すなわち、同じ「世界」を見たその瞬間(「社会」ではない)、esとesは、共振する。分かり合えたと感じることができる。初めてチームはひとつになるのである。
舞台に上がる演者が、観客と一体感を感じるのは、演者のesと、観客のesが、その「場」を囲んで同じリズムを感じるからである。その時、同じ「世界」を見ているからである。演奏がはじまった時にはバラバラだったそこにあるesの数々が、演奏が始まると次第に一体化していく。それが最高潮に達すると、その場にいる人間は涙すら流すこともある。涙腺はesが門番をする扉である。
ひとがひとを好きになるという現象はesと、esの、共振がそのミナモトである。つまりは、自らのesが瑞々しくイキイキして健康な時にだけひとはひとを好きになる能力を備える。恋愛からの退行は、近代化の進展とちょうど反比例である。
近代の鎖を外して・・・
損得勘定ではない。世俗で得をしたいという衝動は(もちろん、損をしたくないという衝動も)、esを押さえつける鉄格子である。こっそりいい思いをしたいという「衝動」は、esではなく、自分の中の「他者」である。その「他者」に操られっぱなしになると、人は自分を見失う。自分を見失うとはesを見失うことである。社会全体がesを見失うことを物象化という。
近代化とは、esを管理する作法である。時間を守らなくちゃ、社会の座席から振り落とされないようにしなくちゃ、という感情は、esを飼いならす鎖である。近代化を相対化できず、無邪気に乗っかるだけでは、esは次第に弱っていく。近代へのアジャストは、esを見る目を遮る曇りガラスのようなものである。安心・安全・便利・快適という近代化を求める心そのものが曇りガラスなのである。座席争いが人生だと思わされているあいだは、わたしたちのesは眠っているようなものである。
鎖を時折り外してあげないといけない。
近代とは、あなたや私のなかにある「損はいやだ・出来れば得をしたい」という「意識」の集合が形づくる想像上の「鉄の檻」である。がっつり絡み合い、ふだんは決して解かれることがない。それを時折り、「脱臼」させてやる必要がある。esを、解き放ってやる必要がある。
そうしないと人間は虫になる。社会は暴走を始めるのである。
人間が人間であり続けるために
esは、esと、つながりたがっている。
esは、esを、殺したりしない。
だから、esには戦争を止める力が備わっている。esは、esを、慈しむ。esは、esを、求めているのである。
美しいものを見たとき、人は人に「伝えてしまう」。それはesがひかれあう磁力を備えるからである。(芸術)作品は、それを見た人を他者へと誘う。誰かにそれを伝えたくなる。逆に、独り占めしたいと感じさせるものは「商品」である。近代の枠組みの中にある「商品」は、損得勘定を喚起する魔力を有する。「作品」は連帯を促す「逆魔力」である。
「商品」を「作品」に変換させていくこと。それだけで大きな社会貢献である。
ことばにする勇気をもって
言語化以前の知を、言語化しようとする瞬間、近代人は若干の躊躇を感じるものである。それは近代化の枠組み、すなわち、「正解」があると感じる世界に慣れ親しむ、私たちの安心・安全志向が、esが顔を覗かせた瞬間に覆いかぶさるからである。社会の常識を打ち破る可能性を秘めるesは、物議をかもす可能性を秘める。根本的に唯一無二である。オリジナルである。世界秩序を乱す。だから「近代モード」の人間には、にわかには受け入れられないのである。「近代モード」は全てのひとに備わっている。特にわたしたち企業に勤める者のモードは普段、「近代モード」である。
特に、日本社会では「なぜ?」を巧みに打ち消すニッポン思想の作法が、近代モードを守る壁を分厚くしている。ひとりひとりの内面も、それを予期し、先回りして、自身のesを管理しに動く。
でも、esこそ力である。
あなたの、わたしの、生命の衝動である。
esが枯れるとあなたも枯れる。
感動する力能が枯れてしまう。
「好き」を正直にひとに言うことすら恥ずかしくなってしまう。
何かを好きになっても気付かなくなってしまう。
esはときに近代社会とぶつかることがある。
だから、自分のesを自由にするには勇気がいる。
違和感をことばにするには勇気がいるのである。
でも、その勇気こそが、「近代」が深まったポストモダン社会への処方箋となる。こんがらがって解きほぐせないように感じる「ニッポンモンダイ」の土台を掘り崩す溶液となるのである。
自分のesを育てよう。
それはあなた自身のからだの真ん中らへんで感じる、まだ声になっていない「声」である。
言語化以前から、言語化へと飛躍させる「勇気」である。
あなたの小さな勇気の積み重ねが、私たちの社会を善き方向へ向かわせるエネルギーとなる。
esを解き放とう。esを連帯させよう。
(芸術)作品が、その小さな小さな起爆剤になるはずである。
凜として生きよう。
esが「凜」の元素である。