選挙特番を見ながら考えたこと

選挙特番を見ながら考えたこと

選挙特番を見て考えたこと_私たち日本人の自画像

先日、参院選が行われた。それで夜、選挙特番を眺めていた。わたしのお目当ては、東京選挙区に出馬していた、れいわ新選組の山本太郎の発言を聞くこと。自民から出馬した、もとおニャン子の生稲晃子に負けそうだということを知って「まじか?」と思いながら、普段、遠ざけているテレビのリモコンのチャンネルをカチカチし始めたのだった。

私たちは自民党を圧勝させてしまったようだ。これでもう一段、終わりへの速度が加速した。わたしたちはそんなにこの国の破局を見たいのだろうか。実はそうかもしれない・・・。でも、どうしてそんなことになってしまうのだろう?その理由を考えなければ。頭が自然と回転しだした。

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番組では、久しぶりに巨大な違和感を見せられてしまった。それはキャスターたちの立ち居振る舞いである。日本テレビの櫻井翔くんがその中でも群を抜いた「天才ぶり」を発揮していた。

彼らが必死に身に付けようとしている作法は「何があっても波風を立てないようにする技術」である。櫻井翔くんはそのカタチを見事に見抜き、そして、完璧に身に着ける。他のキャスターたちもほぼ完ぺきである。「それが視聴者に叩かれないコツだから」、彼らはそういうだろう。なんせそれが視聴率を稼ぐ最大のポイントなのだから。入社以来、そうやって身体に思想はインストールされる。いや、自ら進んでインストールする。日本のアナウンサーはみな自分の色を「脱色」して無色化することを競う。櫻井翔くんは、生まれつき「それ」を見抜く「天才」だな、わたしはそんなことを考えながらテレビを見ていた。ここまで意味のないことを意味があるかのように喋れるとは・・・ある意味、すごい・・・

 

でも、それが日本人の自画像である。

彼らを責めても仕方がない。彼らに抵抗できるわけがない。今の民放各社の経営構造では、抵抗=即クビ、で終わりである。

彼らを責める以外の処方箋が必要である。

 

「なぜ?」を上手に消すこと

ここは価値評価を横に置き、分析的・検証的に、背景にある構造を取り出したい。日本人が無意識に求めてしまう「思想のカタチ」である。

それはこうだろう。

 

出来るだけ目立たないように、叩かれないように。

出る杭にならない「知恵」の集積。

 

それが「ニッポン」の原理である。

しかし、それはひっくり返すとこうも言える。

 

絶対に「なぜ?」と問わない作法。

「なぜ?」を上手に消し去る知恵の集積である。

それらの「ことば」を体系にまで「洗練」させた。

※「なぜ?」と問う奴は「めんどくさい奴」といって敬遠される。企業社会では特にそう。でも、そういう奴ほど今の日本を救うために必要である。

 

いつも波風の発火点は「なぜ?」である。だから、日本を「代表する」テレビキャスターは「なぜ?」を丁寧に打ち消していく・・・

爆笑問題の太田光が言った「政治家の勝負メシなんて(選挙に)なんの関係があるの?」に、ホランが迷惑そうな表情で、しかし、自信たっぷりに答えた。「関係ないものなんてないですよ」。

世俗内の文脈(社会の内側=生き残るモンダイ)を、世俗外も含めたこの世界全体(生きることモンダイ)の文脈に、一瞬ですり替えた。

そら恐ろしいニッポン思想の純化したモデルを見た思いがした。

 

ニッポンという思想の根源は「絶対に疑問を呈してはいけない」ということなのである。すなわち、「なぜ?」だけご法度である。

だから、首相会見で心あるジャーナリストには決して質問させようとしない官僚が許されてしまう(それどころか出世する)。大手新聞・テレビは「いい質問」をするより政治家の発言を正確に速記することが仕事だと思いこむ思考停止ぶり。するどい指摘をする山本太郎は国民に「暑苦しい」と言われてしまう。「当選したので勉強します」という生稲晃子を昔ファンだったからという理由で当選させてしまうのである。本人も出馬を恥だと思わない。

ちなみにいうと、乳がんは政治の理由にはならない。お涙ちょうだいで票を集めるにはもってこいだろうが、でも、病気は世俗「外」の体験である。政治は世俗「内」を合理化する技術。

乳がんでの苦労話は、可哀そうだとは思うが、政治とは関係ない。

※医学や医療制度はもちろん「世俗内=政治」のはなし。しかし、癌を患って死ぬかもしれないと思った、という経験は貴重ではあるが「世俗」の外の体験である。生稲晃子が、日本医師会の利権構造を相手取って「日本の医療制度改革をやりたい」、なんて言い出すのなら、わたしは彼女に投票するかもしれない。しかし、「安倍さんに感謝!」なんて言っている様子から察するに、そんな気は毛頭ないだろうし、日本の医療制度の問題点を勉強などしていないだろう。

 

繰り返して言うが、政治は世俗の内側を合理化する技術。それが政教分離(1648年ウェストファリア条約)以来の近代の作法である。ニッポン思想はその「世俗内(=社会)」を「世界」から切り分けることができない。「社会」と「世界」を全部、まぜこぜにしてしまう。

 

※明治維新期、この日本人の思想性に気が付いた伊藤博文は、世俗外(セカイの位置)に天皇を置くことで、「世俗内」を浮かび上がらせることを企てたのである。その「仮説」が見事に成功し、日本は大正期の日本民主主義黄金期を迎えることになった。

※「信条倫理」と「責任倫理」を切り分けられない、そう言ってもいい。「信条倫理」は「善き意図こそ大事」と考える倫理観。「責任倫理」は「結果こそ大事」とする倫理観。前者(信条倫理)が「世界」を含んだ倫理観。後者(責任倫理)は「世俗内のみ」の結果に責任を持つ倫理観である。ふたつは相反するわけではない。一人の中に同居することも可能であるし、たいがいは同居している。ただ、多くの場合、仕分けが効かない。そこに問題の根がある。無意識に、ふたつを都合よく使い分けている、ニッポン思想の特徴である。論理的な議論をしているときに、「あの人も頑張っている」「あのひとは悪い人ではない」「子供のそういうところをこそ私は見てあげたい」「関係ないことなんてない」という話をする人がいるが、そんな言説が「ごちゃまぜ」事例である。「責任倫理」が問われる場面で「信条倫理」の文脈にすり替えてしまう典型である。聞いたほうは、なんだか座りが悪いのだが、正面から批判できないよなぁ・・・なんて感じを受ける。「信条倫理」そのものが間違っているわけではないからである。ただ、その場にふさわしくないだけである。ニッポン思想のよくある風景である。どうしたらこの仕訳を間違えずに済むのか?「それは何問題か?」を意識することである。課題設定こそ重要だと思うことである。今、何問題を解こうとしているのか?から軌道を逸らさないことである。

※厳密にいうと「権威の存在+(その権威を)物心崇拝することを禁止する」という思想が、世俗内倫理の貫徹を促す。「責任倫理」が内面に生まれる原理である(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ほか、ウェーバーの宗教社会学研究参照)。

 

民主主義とは「なぜ?」と問うことからしか始まらない

民主主義とは、自分の損得を合理化し、屁理屈を付けて安心する思想ではない。なんでもかんでもまぜこぜにして「関係ないものなんてこの世にない」とか言って「損得勘定」を正当化する技術ではない。

それは中世の思想なのである。

※資本主義が動いていなかった中世では、それは「正当化」ではなかった。「この世に関係ないものなんてない」というのは「ガチ」でその通りであった。しかし、近代化を選んだ国において、しかもマスコミという利権集団(資本の垂直統合で競争を巧みに回避している)が、その事実を隠しながら「世俗内の合理化」を阻もうとする態度は、不誠実以外の何ものでもないことになってしまう。公的貢献心のカケラもない、私的損得勘定の正当化である。

※民主主義を「どなたの意見も平等に尊重すること」と日本人は考えているがそれは全く違う。聞くべき意見と、聞いても仕方のない意見を明確に分けることが、むしろ歴史的な検証を経た「民主主義」に近い。「世俗を合理化する」という「意欲」が民主主義を産んだのである。「みんな一緒」と「民主主義」とは関係ない。神の権威にビビった大衆が、神よりも重要ではない世俗の論理である「身分制」を破壊したのである。

 

反省(中世では教会に行って懺悔ざんげ)して許してもらおうとする作法は、非合理に逃げ込むことで世俗の合理化を出来なくさせてしまう中世の原理である。

※キリスト教カトリックでは懺悔ではなく告解という。ふたつを区別したがる向きもあるが、社会学的には同じであろう。

 

民主主義とは、世俗の、世俗のみの課題に、「なぜ?」と問うことを原理とする思想である。

「なぜ?」が、中世を解体させ、近代を開いた。

※「なぜ?」と問わずして、合理化(課題解決)も不可能である。財務諸表も読めるようにはならない。ちなみに、「数字が苦手」というのは、目の前の世俗を非合理世界と切り離せない、そう言っているのに等しい。「セカイ」と「シャカイ」を分けて考えられれば、財務諸表など簡単である。

 

中世の作法は、反省(=懺悔)をしてスッキリすること。

近代の作法は、検証(体系と計画を分析)することで(世俗内のみの)結果に責任を持とうとすることである。

セカイという非合理を切り離したおかげで、反省ではなく検証が可能になったのである。

※非合理の軛から解放された形式論理学が花開き、数学が発展することになった。コンピュータが生まれた歴史的背景である。それは21世紀の今でも続く。

 

この国のオーナーである国民ひとりひとりが「なぜ?」と問う習慣を身に着けていて初めてスタートラインに立てるのが民主主義のメカニズムなのである。

もちろん、だからといってすべてがうまくいくわけではない。民主主義はしかし、試行錯誤を前提とした制度であり思想である。間違ったら修正を前提とした制度なのである。

国民ひとりひとりの「なぜ?」がその原動力である。

※近代社会(世俗内)とは、「なぜ?」を起点にした「仮説・検証」で回すことが前提になっている。だから、近代は、本質的に「未完のプロジェクト」なのである。

 

「ニッポン」は民主主義と真反対の作法である

すると気が付くだろう。「民主主義を支持する」のなら「自分」を「脱色」してはいけないのである。つまり、テレビ局のキャスターたちが身に着ける作法は、完全に「アンチ民主主義」なのである。毎日、毎日、公共の電波を使って民主主義を骨抜きにしているのである。

 

それでも彼らを責められない・・・

彼らが悪いのではない。彼らはどうしたらいいかわからないだけである。

彼らも生活のためにああしている。

日本の課題は認識しているのである(期待も込めて)。

ただ、処方箋を知らないだけである(きっと)。

 

 

民主主義はキリスト教の宗教改革が生んだ

もう一度、丁寧に確認したい。問題なのは、ニッポンという思想のカタチなのである。それは端的に、民主主義の真反対の作法である。つまり、なにごとに対しても「なぜ?」だけは絶対に問わないのが「礼儀」である思想である。それがニッポンの「いい人」定義につながる。

 

でも、それを歴史的に見るとどうなるか。

 

民主主義の思想はキリスト教の神への対峙から生まれた思想である。ルターが始めた宗教改革の思想がその源流である。それが中世をぶっ壊すエネルギーを時代に与え、王様の首をちょん切ったのである。身分制を破壊した。

要は、絶対神の前では身分の違いなどちっぽけなもの。

だから、「あいつは『なぜ?』あんなに偉そうにしてるんだ?」

王様に対して大衆がそう思ったのである。

 

中世は「なぜ?」と問うてはいけないセカイ。

近代化とはそれを神の力でひっくり返したセカイ。

神の権威が「なぜ?」を産んだ。。。

 

・・・?

あれ?日本人の思想って中世?

その通りである。

 

外形だけが民主主義の国、思想は中世伝統主義のまま

ニッポンのカタチ。

それは見た目だけ近代民主主義国。中身は中世伝統主義国。

様々な現象の底には、この原理が隠れているのである。

 

悪いのはアナウンサーではない。視聴率という圧力でアナウンサーの思想を型にハメる、「わたしたちの思想」なのである。

 

それが自民党の圧勝を産んでいる。

なにもしないことを選択している。

エネルギー政策も、防衛政策も、産業構造改革も、国民は「今のまま何もしない」と公言する自民党(≒公明党・維新・国民民主)を選んだのである。

 

その根源は、「なぜ?」と問わせないニッポンという思想にあるのである。

 

 

昔はあった政治における「戦略性」

でも、そのニッポンが戦後、見事に経済成長を遂げたではないか。そして、その中心にいたのが自民党だったではないか、そう思う向きもあるかもしれない。(ここでの主題ではないが、ちょっとだけその構造を確認しておく)

 

戦後ニッポンの基本政策は、「アメリカには逆らわない」である。でも、吉田茂図式と宮台真司さんがいうように、それを「ネタ」として「あえて」戦略的に使った心ある政治家がいたのである。彼らが「経済成長」に導いたのである。田中角栄を象徴とする自民党内の派閥「経世会」などが、アメリカが共産主義への防波堤の意味で日本を経済成長させるために自国市場を開放したとき、憲法9条を盾にして日本の全精力を軍備ではなく経済に集中させたのである。防共(という外部要因)と憲法9条(という内部要因)が、「経済成長」を実現させた力学の構造的な骨格であった(SWOT分析的に)。要は、角栄のような心ある政治家が利用した「構造」が、日本の高度経済成長の前提にあったということである。「勤勉な日本人」は必要条件(強み)ではあったが、一番の理由ではない。

だから、ソ連が崩壊した時、つまり、冷戦が崩れ去った1991年、アメリカの政策が反転し、日本の政策も構造転換を迫られたのだった。しかし、そのタイミングで登場した小泉純一郎は、積み上げた資産である自民党の「派閥政治(戦略性)」をぶっ壊してしまった。それを継いだのが故安倍晋三政治である。それが日本の「失われた30年」の基本原因である。(国をぶっ壊した人間を国葬にするとはどういう意味なのだろう?)

日本人の「強み(コツコツ文句を言わずに働く)」は、反転し「弱み(「なぜ?」と問わない思考停止)」となったのである。

 

必要なのは日本人を少しでも「なぜ?」の内に留め置くこと

話しをもとの軌道に戻す。

「失われた30年」を作った原理は、日本人が「なぜ?」と問わない思想を持っているからである。政治やマスコミはわたしたちを正確に写す「自画像」でしかない。

 

敵として責めるべきは、具体的な「この人たち」ではない。

背後に隠れてわたしたちを操る「思想」である。

思想とは「ものの見方・考え方」の体系のこと。

今、日本人の基本思想は「無色透明であろう」とすること

「なぜ?」と問わないことである

 

それを揺り動かさなければならない。

それが、日本低迷を手当てする処方箋の原理を構成するはずである。

 

 

不活性化している日本人の「es」に火をつけること。

それを芸術の力を活用して・・・

そういうことである。

 

あらゆる「仕事」の戦略の基本は、思想史を分析することで浮かび上がってくる・・・

 

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選挙特番をみてそんなことを考えていた。

やはり、事業には「芸術」が必要である。

「なぜ?」を刺激する着火点としての芸術作品が必要である。

時代への手当としての事業を目指すなら、この構造を無視できないはずである。

 

芸術は「脱色」を許さない思想であるはず。

いや、そうでなければ意味がないはず。

今、存在する意味はない。

 

※もちろん一方で、「脱色系」の反対側に陣取る「意識高い系」という内面には、「近代」を「脱臼」させる「きっかけ」も必要なのではあるが(「脱色系」と「意識高い系」はひとりの内面に同時に巣食うともある。人は公的正義より自分だけラクになりたいと思うものだろうから。)・・・ゆえに、ひとことで言うと・・・人々の「思想」を「相対化」し、人々の目を覚まさせる「芸術作品」を暮らしに送り込むこと(もちろん自分自身の内面も含めて・・・)、それが時代の課題を解決するひとつの強力な「方法・手段・手当て」であるという「仮説」が成立するだろう。「脱色系」にも、「意識高い系」にも、「なぜ?」と問わせる「アンチ思考停止」の処方箋が必要である。

※歴史を彩る芸術作品を見ると感じるのである。近代以前的なもの(ギリシャ期のものやルネサンス期の作品など)と、近代以降・フランス革命期以降・ロマン主義的なもので、なんだか雰囲気が異なる、と・・・

その時代の課題によって、芸術家が芸術作品に宿そうと目論む「手当のための処方箋(思想性)」も変わるということなのであろう。

 

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もう少し、時代への手当てという視点で「芸術」を研究してみよう。