「es」 を遮る “曇りガラス” の正体_芸術❻

「es」 を遮る “曇りガラス” の正体_芸術❻

「es」はなぜ、 “曇りガラス” 越しのように見えにくいのか

前回の「暮らしに芸術を。」を別の角度から考えたい。

「触れたもののesに火をつける存在」

そう、芸術と経営を位置付けた。

もちろん、esを見る目の「曇り」を晴らすことが使命なのであるから、理屈で考えても成果は上がらない。しかし、今一度、そのメカニズムを考えたい、そう思った。今後の戦略的判断を間違えないようにするためにも。何度も何度も、同じ地点に戻る必要がある。

 

自分のesはなぜ見えにくいのか?なぜ曇りガラス越しのようなぼやけた視界になってしまうのか?esは、なぜかくも儚く脆いのか。21世紀のポストモダンにあっては、すでに風前の灯火である。

 

es」は「エス」と読む。19世紀から20世紀にかけて活躍したオーストリアの精神分析医フロイトの概念を借りている。無意識に存在する人間の内的衝動のこと。生活者として振る舞っている日常では、あまりその存在に気が付かない。しかし、私たちは確かにesに突き動かされている。

私はesをいい意味で使っている。esを失うと人は感情が劣化し人を好きになることもなくなってしまう。好きなことにして結婚してしまうことはあるだろうが、それは衝動esではなく損得勘定である。

esが枯れると、何が好きで、何が嫌いか、ということすらわからなくなってしまう。世間において「一般的に正しい」とされる意見をキョロ見して暗記するのみ。間違うことは損だと感じてしまう。他者の目にいつもビクビクしながら過ごすことになる。自分の意思のありかなどわからなくなってしまう。自分は何がしたいのかもわからない。必死に正解を探すのみ。権威を失ったポストモダン社会の病理である。そして、時々、自分が嫌になって爆発する・・・

 

それは近代化のせい

それは基本的に近代化の進展のせい。それが原理である。でも、どうして?どんなメカニズムで?私たちはどんな内面の変遷で自分のことばを失っていくのだろうか。

詰め込み型の日本の教育制度が問題だ、という人がいる。その通りであろう。しかし、宗教なきここ日本でも「自分のことば」で話している人はいる。日本の教育は十分条件ではないようだ。ここは、近代社会の原理(宗教がその原動力となった)にまで遡らなければならない。

 

近代社会は、「芸術」を「科学」の中に閉じ込めた。

つまり、「非合理」を「合理」の中に閉じ込めた。

es」を「損得勘定」の中に閉じ込めたのである。

esより損得勘定の方が大きいものとしたのである。

ほんとうは逆なのに。

生き残るために「あえて」閉じ込めた。

それが近代社会の一番根っこの原理である。

 

それは近代憲法の濫觴を学ぶと理解できる。

近代憲法は「宗教」を「社会」の中に閉じ込めたのである。

近代社会は、憲法の条文がその骨格である。その中に閉じ込めた。

信教の自由という条文である。

いわば、「世界」を「社会」の中に閉じ込めたのである。

 

近代憲法は英語でコンスティチューションConstitutionという。「構造・構成」という意味である。いわば、社会のアーキテクチャ=社会の設計図である。近代社会は建物のような人工的な構造物の中に「生きる意味」を閉じ込めた社会ということになる。

 

「生きる」を「生き残る」の中に閉じ込めた社会。

それが、私たちが日々、呼吸するように胸の奥深くまで吸い込む「近代」というメカニズムである。近代は、すべての現代人の血液の中を流れているのである。

 

ほんとうは、世界を感じる宗教的な思考・作法は、損得を基盤とする社会的な思考・作法の枠内には収まらない。あたりまえであろう。世界が始まった理由や自分という存在のわけなどは損得的合理のことばで説明することはできないだろう。誰も理由などわからない。

世界は感じるしかない、そういうものである。

 

そのes(世界)を見る視界が曇りガラス越しのようになっている。

 

それは、「近代社会に適合しよう」とする「意識」が遮っているからである。内省でesを感じようとする心の視界を、世俗の損得勘定が遮ってしまっているのである。時間や約束をちゃんと守ろうとする倫理観が、存在論的な地平を見えなくしてしまっているのである。

 

このメカニズムは覆せない。いくら南の島に逃避して自給自足の生活をしてみても、出家してお坊さんになってみても、世俗の倫理を内面から追い払うことは叶わない。

わたしたちに出来ることは、この真実を知ることである。正確にとらえ直し、上手に共存する方法を考えることである。

そうすればこの近代社会ももう少し生きやすくなる。近代社会に囚われているのではなく、逆に捉え返し、利用することが出来るようになる。

 

だから、まず、その視界の曇りの存在を見ることである。

 

近代社会の本質

17世紀にヨーロッパで起きたカトリックとプロテスタントの長い宗教戦争の末、ヨーロッパの人々は宗教と政治を分けるという知恵を思いついた。いわゆる政教分離である(1648年ウェストファリア条約)。

中世の人々にとっての宗教(ここでは一神教のこと、主にキリスト教)とは、つまるところ、人間という生命のエネルギーの源であり、癒しの源でもあった。祈りの時間に行われるのは、いわば「絶対的なよりどころ」との内的な対話であり、世俗のわずらわしい人間関係に方向性を与えてくれる「権威」の役割を担うものであった。

今風に言うと、中世の人々はガチで自身の「es」を日々感じながら生きていたのである。そばにはいつも「こころのよりどころ」があった。「よりどころ」は他者を殺しても構わないと感じるほどに強いものだったのである。軽々と世俗の人間関係を超越した。

しかし、結局、人間(この場合、西洋人)はその生きる「ちから」を制御できなくなってしまったのである。それで「生き残る」ために、その「ちから」を建物のなかに幽閉してしまった。

 

それが近代というものの本質である。

 

近代とは本質的に「モデル」である

その建物とは、のちに「科学」と呼ばれることになる。科学とはモデル思考で真理に迫ろうとする方法論のこと。宗教を失った西洋人は、代わりに科学的アプローチで真理に迫ろうとした。だから、決して、科学=真理ではない。科学はあくまで方法論・道具である。

真理は閉じ込められた「宗教(世界=es)」の方にある。宗教を信じる「こころ」の方にあるのである。

 

しかし、その科学には社会を推進する力があった。経済や軍事を支配し、やがて世界を支配していく。そして、すべてがそれに従った。生き残るために・・・

産業革命によって勃興した巨大資本が20世紀の世界を覆っていった。21世紀の今もその構造は変わらない。私たちはお金を忌避しながら、お金なしでは生きていけなくなってしまった。お金などどうでもいい、そう嘯く人間こそ、お金が必要で喘いでいる。そんな世の中である。

 

世界と社会がひっくり返っている

ほんとうは社会を世界が覆っているのである。社会がアンコで世界が皮。しかし、生き残るために、それを反転させてしまった。今は、世界がアンコで社会が皮。巨大なエネルギーを鋼鉄の檻に閉じ込めた。

しかし、ウェーバーが分析した通り、そのエネルギーは次第に小さくなっていったのである。ウェーバーは予言したのではない。論理的な帰結を導いたのである。ゆえにこの先もある程度は予測が可能である。社会はもっと悪くなる。

社会の中に世界を閉じ込めてはいけないのである。少なくとも、その事実を知っておくことが重要である。近代社会は「あえて」したことなのである。仲間が生き残るための「ネタ」が近代社会である。近代社会に無邪気に浸かっているだけでは、感情は次第に劣化するのが必然。元気は「必ず」なくなってゆく。誰か、弱者を搾取するしか元気でいられる方法はないのである。ハラスメントは近代社会の必然である。

 

さてどうしたものか。

 

芸術と宗教の関係

かつて「宗教」と呼ばれていたものが担っていた役割は、次第に芸術という領域に巻き取られていくようになったのだと思う。

宗教改革以降、産業革命などの近代化の進展以降、人々は次第に「真理=科学」と信じ込むようになっていく。宗教戦争を収めるために、いわば「ネタ」として、あえて行ったこと(政教分離)が、「ベタ」に信じこまれるようになっていく。そして、世俗社会の中から「宗教」が排除されていく。

それを背景として、「ことば」は「魂の不思議=人間存在の不思議」と切り離されていくのである。「ことば」は感受性を失い、世界との結びつきを切り離されていくのである。

「考えること」は、自分の内面とは切り離された「対象物」を「分析」することと同義になっていく。要素還元主義こそ真理などと思いこむ。そして、「ことば」は重みを失ってゆく。湧き上がる「違和感」は、「封印すべきもの」と信じられるようになっていくのである。esを口にすることは、次第に「変なこと」になっていく。そんなこと言っていないで「早く学校に行きなさい」。フツウのオトナがいいそうなセリフである。今やesは損得勘定によって完全に無視されている。

 

でも、それでは人間は生きていけない。

空っぽのまま「生き残る」ことはできても「生きる」ことは出来ない。

それが人間存在というやつである。

人間存在の不思議は、そこにそのままあるのである。

人の内面は、確かに世界と繋がっているのである。

 

それを埋めようとする歴史、それが芸術の歴史なんだと思う。

 

芸術はいまや、かつて宗教が担っていた役割を果たそうとする。

 

芸術の機能

ここではあえて「機能」と言ってみたい。芸術を近代社会に対峙させて理解したい。

 

芸術が担わなければならないのは、この近代社会の呪縛を「見える化」することである。人々に「鉄の檻」の存在を知らしめて「正しく絶望」してもらうことである。「正しく絶望」することで、人は内面から元気なっていく。自らのesの存在を感じ、人生が愛おしく感じることだろう。そんな人が戦争などしない。

私たち近代社会に生きるものは「ちゃんと」生きていれば生きているほどesを見失ってしまっているのである。それを知らしめることである。論理的に考えれば、ヤクザなどのドロップアウトした人間の方が「見えている」に違いない。逆に「優等生」ほど目が曇っているはずである。

でも、頑張って「ちゃんと」生きてきたのに不幸になるなんてあまりにもかわいそう。頑張れば頑張るほど、元気がなくなる社会なんて酷すぎる。だから、「芸術」が必要なのである。芸術は、近代のスムーズな回転に亀裂を与えるインパクトである。近代人の心に傷を与え、日常を立ち止まらせるハンマーである。

 

 

内省を妨げる “曇りガラス” の正体を見極めよう。

絶望してもまだ、この世界には芸術があるのだから。

芸術に邁進する魂が、まだ、炎をたたえて燃えている。