「芸術」と「イノベーション」 ふたつは同じ構造をしている_芸術❹
現役の芸術家が狙っていたもの
芸大報告の2回目である。今回は、あまり抽象的にならずに、可能な限り具体的な内容にしていきたい。(「面白い文章とは?」という質問に、文芸の先生から教えてもらったことである)
そもそも、その芸大で開催されていた展示会に興味をそそられたのは、そのタイトルが「イケていた」からだった。カッコいいことばだな、そう思った。
その展示会は『逸脱する声』と銘打たれていたのである。「うわ、すごい」それが私の最初の反応。きっと大ベテランの実績のある大御所が関わっているに違いない。きっと普段から着物とか着ちゃってる「怖い人」が主催しているんだろう・・・そんな感じだった。
・・・と同時に、すっかり魅了されたのである。普段、わたしが経営の現場で感じている「不思議」を、芸術という異なる「現場」でも感じているのかもしれない、そんな直感を呼び覚ましてくれたのだ。
「声」は「フツウ」「逸脱」などしない_でも、「フツウ」ではないからこそ、真理を捕まえることが出来る・・・私はこの人たち(芸術に携わる人たち)の「フツウ」が知りたくなったのだ。
私には、こう聞こえたのである。
「声」とは、わたしたち人間の「内的衝動」のこと。フロイトがいう「es(エス)」、つまり、普段は無意識の内に閉じ込められている生命の衝動・叫びのことである。ミスチルの歌にも同じ意味の『es』という名曲がある。人間がこの世界に生まれ落ちた、その原動力になっている「ちから」のことだと私は理解している。ミスチルは自らの「es」に向かい、「僕を走らせてくれ」と歌うのである。
普段、わたしたちは、近代の内側で生活者・存在者として、他者の目にビクビクしながら、その「声(es)」を「管理」しながら生きている。そうしないと生活に支障をきたすから。他者に迷惑をかけることはここ日本ではご法度である。先回りして抑え込むのが「善き市民」の在り方である。
しかし、だからこそ、囚われの身であるその「声es」を、芸術作品を踏み台として解き放とうじゃないか、たまにはメンテしてあげないとかわいそうではないか、そんな風に言っているように感じたのである。わたしは、無性にその「声」が聞きたくなった。
そして、こんな「ことば」が浮かぶ人たちが過ごす芸大という空間に浸ってみたくなったのである。期待に胸が膨らみ、心が浮き立った。と、同時に、「芸術とは何か」という私の最近の関心にヒントがもらえるかもしれないと期待したのである。
芸術家の必要条件
展示会場では、『首都圏境』という壁一面の大きな絵がひときわ目を引いた。「しゅとけんきょう」なのか、「しゅとけんざかい」なのか、題名はなんと読めばいいのか結局わからなかったが、高架橋の鉄骨を横から眺めたような構図は確かに確認できた気がした。はたしてどんな「声の逸脱」なのか。
実は、今だによくわからない。しかし、よくわからないのだが、こうして「よく思い出す」ことにふと気が付いた。もしかしたらこれが「声の逸脱」ということなのか。わたしのesが作品に反応し、その「声(es)」が蠢いている・・・芸術家とは、これを狙っている人々のことなのかもしれない。わたしは東京に戻り数日たって、妙に納得した。芸術家の必要条件とは、見たものの「esに着火する」作品を作れること、そんな風に思えたのである。
「作品」を分析してみても
ともすると私たちは、芸術家が作った「作品」そのものを「分析」しようとしてしまう。その作品を対象物として自分から切り離し、要素還元主義的に分解しようとする。しかし、それでは実は「芸術」はわからないのではないか。
大切なのは「作品」を見た時のこちら側の内面の変化、それを敏感に感じ取ること。瞬間的に走る内省の方にこそ真実はあるのではないか。
だから、何も感じないのだとしたらそれはそれ。その時の内面がそういう状態なのであろう。時が違えば何かを感じるかもしれないし、もちろん、永遠に何も感じないかもしれない。でも、きっとそれでいいのである。大事なのは、変化する内面を感じようとする、そのことである。
近代社会は自動的に手続きが流れる仕掛けである。もう何百年もただただぐるぐる回る自動機械である。私たちはそうした「動き」に慣らされている。心も次第に巻き込まれていく。何も感じないことがそうした社会でうまくたちまわるコツである。このコツを子供のころから体に刷り込まれてしまうのである。そして、大人になるころには心がぽっかりと空洞化してしまう。もう何も感じなくなってしまうのである。自分の衝動がわからなくなる。
そしてことばは軽くなる・・・
芸術は、それを止める防波堤の役割を果たしている。芸術の可能性を感じた瞬間でもあった。
事業家との類似性
その大学の先生でもある現役の芸術家たちの作品展『逸脱する声』は、「芸術とは何か?」という私の疑問にひとつの輪郭を与えてくれたようだ。
でもその構造を俯瞰してみると、わたしはもう一つの気づきを手にしていた。
「これはイノベーションのメカニズムそっくりではなないか!」
世間ではイノベーションは技術革新のことだと思われている。しかし、それは違う。定義が狭すぎる。技術革新はイノベーションの半分も説明していない。それでは原理を捉え損なっているのである。
シュンペーターやドラッカーがいうイノベーションの原理とは、そして、わたしが現場で感じ取ってきた真理は、こうである。
「見たものの内的衝動(es)を掻き立て、それまでの世界認識を刷新してしまう、その、動的な一連のメカニズム」
芸術作品や、スマホのような商品は、その「発火点」に位置付けられる。コンセプトやデザイン、その時の社会的な文脈、競合製品との位置づけなど、すべての関係性が混然一体となったものとして動く「一連のメカニズム」として見るのである。作品(商品)の製作者は、その流れに掉さしながらも望む方向に変化させようと目論む。いわば、作者のesと、見たもののesが、作品(商品)を含む大きなメカニズムを通して、一瞬、触れ合い化学反応を起こす。パッと一瞬、発火するように。だから、そこで発された「光」は二人の内面でしか「見え」ない。メカニズムを感じ取っている者にしか見えないのである。しかし、両者にだけはたしかに「見える」閃光である。それがイノベーションというものの原理なのである。
それが起こる時、意図したもの(製作者)の内面は、いわば「全能感」を手にしたような感覚に襲われる。その影響範囲が大きければ大きいほど、その生命は躍動する。そして、近代の回転に巻き取られた心が癒されるのである。esは世界と一体となる。
芸術もイノベーションも、たしかに同じ構造を持っている。私はそれに気がついた。
イノベーションは起こった瞬間から陳腐化が始まる
しかし、イノベーションには賞味期限がある。いや、だからこそ、と言うべきか。見たものの心の方に焦点があるのだから当たり前である。どんなに大きな影響を与えた「商品」も時間の経過とともに忘れ去られる運命である。でも、それは「芸術作品」も同じなのではないか。
だから事業家も芸術家も、過去の栄光という「貯金」で過ごしていてはいけない。そんな普段からの感覚と繋がった。
常に「坂の上の雲」を目指す若々しい心持ちでいなければならない。勝手に振り込まれる給料に寄りかかってはいけないのである。心の中心には常に危機感がなければならない。そうした近代の仕掛けに巻き取られそうになる自分にこそ「恐れ」を抱いていなければならないのである。私たちはみな近代の空気を肺の奥深くまで吸い込みながら日常を過ごしているのだから。
作品が陳腐化する速度で、芸術家や事業家の存在も陳腐化していくのである。
世界と地続きに、私たちの「es」をイメージする
社会や世界と、「es」は地続きなのである。分けて考えられるものではないのである。それが芸術を理解するコツである、と同時に、事業というものの本質を理解するコツである。
イノベーションを生み出す「いい作品」や「いい商品」は、「社会」や「世界」の割れ目や、少しズレたところ、自動回転の側から見れば「不良」とみなされるような「違和感」の噴出地点である。日常の淀みない時間の流れを堰き止める、「予期せぬ」事件、作品(商品)はそうでなければならないのである。人間社会のメカニズム全体を見据えながら、芸術家も事業家も、自分の「作品」をデザインしなければならない。
ある芸術家が語っていた。「自分は作っていないと生きていけないからそれと取り組んでいるだけである」と。実は、人に見てもらいたいとも思っていないのだと。わたしも同じ感覚で事業に取り組んでいる。
この芸術家がいう「人」とは、マスコミなどに騒がしく登場する「人」の事だと思う。しかし、esという意味での「ひと」には訴えている。訴えたいと思っているのではないか。それは、顔や体を持つ、いわゆる「人型」はしていない。esはひとつのエネルギーである。それは目では見えない。自らのesをもって感じ取るしかないものである。自分のesが世界とつながった時、はじめて感じ取ることが出来る、そうした全体を構成するリズムである。
事業家・芸術家のもう一歩
「芸術家」も「事業家」を誤解している。逆に、「事業家」も「芸術家」に敬意を払わない。その最大の原因は、この類似性を分かっていないからではないか、わたしにはそう思えてきた。芸術の本質と事業の本質は同型である。違うのはシニフィアンだけである。シニフィエは実は同じなのである。
これを理解できないから「事業家」の大半はただの「利権屋」に成り下がってしまう。周囲の人間関係こそすべてとばかりに、あらゆる「会合」に顔を出すのが仕事と勘違いしてしまう。しかし、その動機はesの刷新などではない。近代社会の枠組みの中の座席争いである。浅ましい損得勘定である。「どこかにおいしいネタは転がっていないか?それに気が付けないと損ではないか」そう浅ましく考えているのでしかない。こうした人々が事業家の価値を下げてしまう。迷惑な連中である。
しかし、一方、「芸術家」の方にも問題はある。「事業家」を「お金を振り回す怖い人」だと決めつける。話しもせず勝手にレッテルを貼って遠ざける。
事業家にとってのお金は、目的ではなく手段でしかない。それは芸術家とて同じこと。作品だって、文章だって、お金がなければひとつも実現できないのである。B/Sも、P/Lも、芸術家にだってあるのである。構造は同じなのである。
事業家も芸術家も、もう一歩先まで理解を進める必要がある。
未知の領域へ飛び込む勇気
満足したら終わりである。知っていることの範囲にとどまり出したらどちらも終わりなのである。事業家も芸術家も、もっと襟を正さなければならいと思う。事業家は芸術家に刺激をもらい、芸術家も事業家にもっと質問しなければならないと思う。事業家を、目に見える扱う商品のみでレッテル張りしていないで、その動きの本質、それをこそ見つめるべきである。
そのためにも自らが、商品や作品、または「事業」そのもので勝負していないといけない。
成功した起業家によくいるのであるが、「もう自分は仕事を成し遂げたから、あとは後進の育成に励むことにする」そんな下らないことを言っていないでもっとチャレンジするべきなのである。
『逸脱する声』の展示会のインタビュー記事のどこかにも書いてあった。芸術家の本質は、最後は「勇気」である、と。イノベーションの本質も、それにチャレンジしている人間のことばは同じである。他者の反応や未来のことは誰にも分らない。だから自らの身体を投げ出すように、未来に対してジャンプしないといけない。毎回、毎回、何度でも、何度でも、未知の領域に飛びこむのである。
実績を上げたものの多くは、この「勇気」を失っていく。後進の育成という大義に隠れて自らの勇気のなさを覆い隠すことに汲々としてしまう。でも、勇気を失うと人間は精神の老いが始まってしまう。毎日イライラし、目が光を失っていくものである。
だからこそ、芸術家も事業家も、この近代社会の「中央」にいてはいけないのである。ちょっとうまくいったくらいで満足してはいけないのである。死ぬまで飢えていなければならない。真の芸術家や事業家は、絶対に満足しない人である。常に渇いている人なのである。攻めている人である。
事業家としてもっと襟を正さなければ
目に見えるものを見るのではない。事業家は目に見える数字を追いかけてはいけないのである。数字はただの結果である。数字が出る頃にはすでに現実は変化を始めている。見るべきは未来である。社会のメカニズムの変化である。数字は単に過去の仮説を確認するものである。数字がもし、望むほどに上がらないのであれば、それは自分のesが虚弱なのである。本来の力を引き出せていないのである。それをこそ内省すべきである。
芸術家も大衆に迎合することなく、大衆のesを刺激し続ける責任がある。近代社会にどっぷりと浸かった怠惰なesたちを叩き起こす責任があるのだと思う。もし、大衆が反応してくれなかったとしても、それを大衆の無理解のせいにしてはいけない。その結果、生活が苦しくなるからといって、世間を責めてはいけないのである。
そして、もし、生活のためにやむを得ず大学などの組織に所属するならば、その組織が提供してくれる生活の糧にもっと感謝すべきである。その手にしたお金は、「事業イノベーション」によって生まれたものなのだから。芸術と事業は同じ構造をしているのである。
自分が直接、大衆からお金をもらえない(十分大規模なイノベーションを起こせない)から組織に所属しているのである。その構造を忘れるべきではない。大衆のesを刺激できる作品が作れたならば、大衆はお金を払うだろう。もし、生活できるほどの規模がないならば、それをこそ考えるべきなのである。作品でお金を稼げないのならば、それが自分のesの身の丈なのである。自分のesの力なのである。
作品を見てもらうチャンスがないのならばその仕組みをつくるしかない。仕組みを作ることもまた「創作活動」である。自分で作らなくてもいいのである。マネジメント出来る人に任せてもいい。組織もまた「芸術作品」なのだから。
芸術作品も事業も同じ構造をしているのである。絵画の技術を習得するのに一定期間以上の訓練を要するのと同様、事業技術の習得にも10年以上の歳月がかかる。そして、何十年学んでも尽きることのない知の蓄積がある。
くしくも私はそのことを「芸術家のことば」から教えてもらった気がする。芸術家のみなさんに感謝である。
事業はもっと芸術を吸い込まなければならない。
芸術ももっと事業というものに浸らなければならない。浸っても負けではない。浸らないことの方がある意味、「負け」なのではないか。
『逸脱する声』は、そんな真理を私に教えてくれた。
次の展示会を楽しみにしたいと思う。