経営は芸術を包み込むやさしき繭であれ_芸術❸

経営は芸術を包み込むやさしき繭であれ_芸術❸

芸大で感じた理想郷

はじめて芸大という場所に足を踏み入れた。そのゆったりとした時間の流れ。学生や先生方のイキイキとした顔。職員の方たちの顔まで暖かい空気を醸し出していた。経営や政治経済を学ぶ空間とは明らかに雰囲気が異なっている。建物までが芸術作品となっているその学び舎から感じる文脈は、まるでユートピアを思い起こさせる。そこに理想郷を見た思いがした。

 

芸術家たちのジレンマ

私たちの会社説明会のために伺ったのだったが、その前に、少し時間があったので、その大学で教えている先生方(みなさん現役の芸術家である)の作品展を見た。作品を十分に解釈する力がわたしにあるわけではないが、そこにあったインタビュー記事をじっくり読ませていただき、現代日本の先頭を走る芸術家たちのナイフのような先鋭なる感性を感じた。

そこにあったのはマルクスがいう物象化現象に対する「反抗心」、そう呼んでもいいような強烈な批判精神だった。ある芸術家は、芸術作品を作り続けていないと死んでしまうと告白し、ある芸術家は近代以前の、まだ、物語にさえなっていない生成途中のわたしたちの自意識を浮かび上がらせ、そしてまたある芸術家は都市の存在物は見る者の感受性によって変化することを見事に表現していた。

みな一様に鋭い。表現方法やその対象は異なるものの、みな近代への批判精神を見事に発揮されている。まさに日本を代表する芸術家たちの姿がそこにはあった。

 

いったい誰が「リソースを供給(=経営)」しているのだろう

ただ、同時に「この人たちは何をもって生命を維持しているのだろう?」、端的に言えば、「この大学を経営しているのは誰なんだろう?」「こうした幸福な環境を誰がどんな構想・戦略で準備しているのだろう?」、そう感じたのもまた事実であった。

芸術家たちの批判は正しい。近代社会は確かに息苦しい。作品を作り続けることで、酸素を体内に取り入れ続けなければ生きていけない世の中であるということも理解できる。批判はまさにマルクスのそれとパラレルである。論理的には全く正しいのである。

しかし、である。なにか巨大な違和感を感じたのもまた事実である。

それは、経営とのアンバランス、経営というものの存在をまったく感じ取れなかったということに由来する。逆にそれによって浮かび上がっていたのは、経営に対する「恐れ」でしかないような気がした。経営者をなにかサイボーグのごとく向こう岸に追いやっているようでもあった。わたしが現役の経営者であるからこそそれを鋭く感じてしまったのは間違いないが、わたしが努力しようとしている芸術家たちへの歩み寄りほどに、芸術家たちはこちら側に歩み寄ろうとしていない。巨大な空間であるその学び舎では、私は帰るところを失った家なき子みたいだな、そう感じたのである。芸術活動を支えているその外郭、芸術家たちが踏みしめている地面の存在は、ここでは完全に無視されていた。社会の全体像は、ここではなきものとして扱われているようだった。

 

芸術と経営の断絶_現代社会の縮図を見る

私は、そこに現代社会の縮図を見たような気がした。マルクスがいった資本制による自己疎外の裏側を見せられた気がした。マルクスは、資本制によって疎外される「経営サイドの人間たち」を描き出した。しかし、芸大にあったのは、その「疎外された人間たち」を無視するもうひとつの「疎外」であった。

たしかに、資本制の魔力に取り付かれた人々は芸術家たちの苦悩に気がつかない。しかし、芸術家たちもまた、資本制の中で格闘する経営者たちの苦悩を知らない。お互いがお互いを遠ざける悲しき構図がそこにはあった。

 

わずかでもいい、相互理解を

少しでも歩み寄れないものだろうか。僅かでいいのである。お互いが何に苦悩し、何と戦っているのかを、一歩踏み込んで理解できないものだろうか。

経営者サイドは芸術を体験してみることだろう。経営は芸大の空気を少しでも吸い込むべきである。と同時に、芸術家サイドも、経営を忌避せず資金繰りの「苦悩」を経験すべきであろう。

近代社会は分業社会である。ゆえに、一歩ずつ踏み込みながらもそれぞれの持ち場に再び帰ることは構わない。しかし、踏み込まずして持ち場に引きこもることだけはしてはいけないのではないか。これでは近代のアポリアは解消されえない。いつまでたっても連帯は叶わない。特に、宗教なき日本社会の分断は相互接続の機会を逸したままとなろう。それではいけない。

 

経営の責任・芸術の責任

私は、それでも、社会の主役は芸術家であっていい、そう思う。経営者が主役を張るような現代社会はちょっと異常である。「芸術作品も売れたからこその評価である」、そんなアメリカのような価値観は行き過ぎだと思う。芸術家たちがもっと生きやすい世の中を設計するべきだと思う。経営者にあたっているスポットライトと同等の光りを芸術家にも当てるべきである。そうした意味では、極端にも映る芸大の取り組みはバランスを取ろうとしているともいえるのかもしれない。しかし、何か行き過ぎは感じる。

芸術家は芸術の、経営者は経営の、それぞれの領分を全うすればいい。しかし、お互いがお互いを忌避してはいけないのだと思う。経営者はもっと芸術家の魂に敬意を払うべきだし、芸術家はもっと経営者の苦悩を理解するように努めるべきである。そのうえで、お互いが一隅を照らすように謙虚に活動を続けよう。

 

 

芸術家たちの言い分はこうだろう。だって、経営者なんて芸術のことをまったく理解していないではないか。日本政府だって芸術に対する支援が少なすぎる。ひいては国民の無理解も目に余る。その通りである。

でも、毎日、マーケットと格闘する私の感覚からすると、それも致し方のないことではある。みな自分の生活で精一杯で、芸術を感じる余裕がないのである。もっと踏み込んで言えば、芸術と娯楽の区別を真剣に考えるリテラシーがないのである。困ったものだ。

でも、それは芸術家においても同じことである。マーケティング&イノベーションの何たるかを知ろうとする時間がない。精神的なキャパシティが残っていない・・・

 

プレコチリコの役割り_コンテンツ面で芸大と積極的に取り組む

そうした意味で、プレコチリコの役割は大きい。理屈だけではなく、現場における相互理解の浸透まで、その役割のスコープは拡大したと言えるだろう。私も気持ちを新たに、それを自らの使命としなければいけないということを心に誓わざるを得ない機会となった。意図せざるではあったが、それが経営者の責任である。正しい反応である。

相互不信を嘆いている場合ではない。わたしたちこそが前に進むべきなのである。

 

芸大と経営と。近代社会の帰結がここには確かにあった。

だが、これで終わりではない。まだその先が残っている。来るべき未来のために、相互浸透を先頭切って行う責任がプレコチリコにはあるのだと思う。

 

芸大との取り組みをその嚆矢としたい。

もう一段、経営は大人になることによって。

経営は巨大なやさしき繭になろう。

芸術というバルネラブルな魂を包み込む保護装置となろう。

芸術家の持つ、無垢でピュアな内的世界をこの近代社会に解き放つために。

 

芸術は社会を変えられる。

戦争をも止めるチカラがある。

しかし、経営もまた一歩大人になることによって社会を変えられる。

 

それが、京都で感じたひとりの経営者の正直な告白である。