“自分のことばで話す” とはどういうことか

“自分のことばで話す” とはどういうことか

「なぜ?」ではなく実践的な処方箋を考える

自分のことばで話す人には説得力がある。本気を感じる。心が動く。逆にそうではないひとのことばには力がない。魅力を感じない。説得されない。何か、はぐらかせれているような座りの悪さすら感じてしまう。

それは自分のことばなのか、他者のことばなのか。自分自身の腹の中から絞り出した内臓から出でることばなのか、それとも、自分が決して傷つくことがない表面的な借り物のことばなのか。

発することばに確かに感じるこうした違い。果たして、“自分のことばで話す”とは、いったいどういうことなのだろうか。

「なぜ自分のことばで話せないのか?」は今回はあまり問わない。ことばが浮ついてしまうのは近代化の進展のせい、それだけを確認して先に進みたい。

 

問いたいのは、

「どうしたら自分のことばで話すことができるようになるのか?」

「説得力を持つにはどうしたらいいのか?」

「説得力はどこから来るのか?」

である。

 

近代化の進展で自分のことばで話すことができない人はどんどん増えていく。いくら本を読んで語彙を増やしても、経験を積んで出来ることが増えても、こうした人のことばにはなぜか重みがない。口はよく回るのだが、聞いた者の心は動かない。一方で、自分のことばで語ることを知っている人は、わずかなことばでも震えが来ることがある。

私たちが掲げる「全社員企画職への挑戦」とは、まさに、自分のことばで話すことができるようになるための「挑戦」なのである。ポストモダンというツルんとしたザラつきのないつまらない世の中に一石を投じる試みなのである。それは戦争によって退屈しのぎをしようとするネオコンへの治療薬であり、その意味では静かな社会改革である。しかし、その「挑戦」は、現代社会でもっとも難しいものでもある。とても根が深い。

もし、仮に、この社会に自分のことばで話すひとしかいなかったとしたら、民主主義など簡単である。議論すればするほど物事はよくなる。危機にも強い。家産官僚が蔓延ることもないし、ウクライナ戦争も解決できるだろう。安倍晋三や麻生太郎などの「利権政治家」が選挙に通るより、ことばで国民を説得する政治家に人気が集まることだろう。経済も発展し、人々が幸せのうちに死を迎えるユートピアが実現するはずである。

近代社会のすべての課題の根っこには、この「自分のことばで語れないモンダイ」が横たわる。知識社会化が遂げられない、根本的な原理はまさにこれなのである。

だから難しいのは百も承知。解ける保証もどこにもない。しかし、この問題にチャレンジせずして、すべきことがあるとは思えない。公的な怒りを持つのであれば、こうした一番重要なモンダイを脇に置くことはできない。

 

今回はなぜ?を問うより、どうすればいいのか?を集中的に考えてみたい。

もちろん、自ずと「なぜ」にも答えが及ぶことになると思うが・・・

 

自分に嘘をつかない

まずはいつも現場で感じる感覚的なところから話を始めよう。まず、裏から照射してみる。自分のことばで話すことができない人の特徴は、自分に嘘をついている、少なくとも、聞いたほうがそう感じてしまうということである。本人は気が付いていない。聞けば、嘘をついているつもりはない、そういうだろう。しかし、実際は論理一貫性と現実妥当性をごっちゃにしている結果、「嘘が発せられてしまっている」のである。一貫性を重視すべきところで妥当性を選び、妥当性で妥協しなければならない場面で一貫性にこだわったりする。

年季が入ってくると、「信念」ということばで論理飛躍をなかったことにしてしまうこともある。存在論は世俗の倫理と同義語である。ひとの発言は自分の発言である。自分の意見と他者の意見の区別がつかないのも特徴である。厄介である。

だから、自分のことばで話すことができない人は、同時に、自分の内面のメカニズムを論理的に検証できない人でもあると言える。自分の心の境界線がわからない。

 

思っていること・言っていること・やっていることの一貫性

ドラッカーは、マネジメントにとって一番重要なことはIntegrity of Character、すなわち、人格の統合だと述べている。論理一貫性と現実妥当性の言い換えだといっていい。日本語訳では「真摯さ」となっているが、原文はこのIntegrity of Characterである。ドラッカーはこうも付け足す。「思っていることと、言っていることと、やっていること」に一貫性がなければならない、と。そうしないと他者は動いてくれない、すなわち、マネジメントは成立しないのだと。

今回、追求したい、「自分のことばで話すことができるようになるための処方箋」にはどうしても論理思考が必須だということになる。自分の腹で感じる内面のメカニズムを論理的に説明する努力が必須だということになる。内面を辿るとき、論理の飛躍は許されない。どこまでもどこまでも論理一貫性にこだわらなければならない。そのうえで現場現実で妥協する(現実妥当性)。

まずはこのことを確認して先に進みたい。

 

他者から責められる場所を作らない・どうしようもない時は認める

「内面のメカニズムを論理的に説明する」という処方箋を、手で触れる程度に分解していきたい。

まず、ひとつは「他者から責められる場所を作らない」「どうしようもない時はその矛盾を認める」というものである。自分自身の選択・行動を説明可能な状態にし続けると言い換えてもいい。生身の人間は聖人君子ではないのだから、すべてに説明可能なようには出来ないだろう。その時は、言い分けせず、出来ない自分、矛盾した自分を内心でしっかり認めることである。

論理的な一貫性は統整的に死守する。現実との矛盾は、矛盾としてごまかさず認める。恥ずかしい行動はわかったうえで選択する。近代においてはこれしか世俗で生きることは不可能であるのだから。

 

どうやって生きたいか・どうやって死にたいか

こうした一貫性や恥を感じる気持ちを追求していくと、結局、行き着くのは「要はどうやって生きたいか・どうやって死にたいか・死んだあと誰にどうやって記憶されたいか」というところにたどり着く。自分自身の美学を問わざるを得なくなる。自分自身の「在り方」を振り返らざるを得ないところまで辿り着くだろう。世俗の倫理のレイヤーを相対化し、存在論的な位相に転位することだろう。

 

「あなたは何がしたいのか?」

もしくは、

「何がしたくないのか?」

「どんな自分のり方を恥と感じるのか?」

これに明確に応えるにはどうしたらいいか?

 

ポイントは「誰に?」というところだと思う。具体的な人を想像するほうがわかりやすいと思うが、もう少し抽象的に、「どんな人に?」と広げて見たほうがいいだろう。歴史上の人物や、歴史そのもの、としてもいいかもしれない。宗教になじみが薄い日本人にとっては「世間の目」となりがちだと思うが、それは避けたほうがいい。倫理のレイヤーから抜けられないから。

そうではなく、自己の内省に「超越的な他者の目」を導入するのである。自分が理想とする完全人間としての「他者」である。近代が立ち上がったころの人間たちの内面の構造変化を参照するのである。

宗教改革後のキリスト教は、構造的・社会的に、これをやったのだと思う。そして、歴史が大きく動いた。プロテスタンティズムの原理は、私の行動も内面も、常に神の目に見られている、そして、あなたの未来もすでに神が決めている、隠れてもすべては見抜かれているという「予定説」である。プロテスタントたちは、最後の審判で神に選ばれることを確信するために、日常生活を禁欲的に、英雄的に、仕立てていったのである。ピューリタン革命のクロムウェルやフランス革命、そこに連なるアメリカの建国などを思い出す。「完全無欠な他者の存在」を心の底から信じることで人間を英雄に変えてしまう原理である。

 

日本人がいきなりプロテスタンティズムを信じるというのも現実的ではない。しかし、「死んだあとどのように歴史に記憶されたいか?」という問いに変えれば、キリスト教徒になる必要もあるまい。要は、人間関係を超えた(超越した)完全無欠な第三者の目「のようなもの」を導入するのである。

 

非難を恐れない・正解を探さない

「超越的な(完全無欠な)第三者の目(のようなもの)」の導入は、具体的でわずらわしい日常の人間関係を相対化してくれる。もちろん、相対化したままでは、現実に戻ってこれなくなるだろうから、それだけでは生活に支障をきたすが、日々、そうした「モード」に自分を追い込む習慣は意味がある。心の重心が低い方へと降りてくる。地に足が付いたようで、心が落ち着く。

そうした人間関係を超越した「心の場」を意識することで人は現実の悩みを小さなものと感じることが出来る。存在論的な位相にワープするといってもいい。時間などの「些細な倫理」に縛られている、近代の内側に囚われているちっぽけな「私」を解放してあげられる。一瞬、「自由」を感じる瞬間でもある。

 

その時、人は、他者の非難など恐れない。

正解を探そうなどとは思わないものである。

 

その時、人は、目の前の現実を見ているが見ていない。

目の前の現実から「名前」が剥がれ落ち、ただのひとつの大きなメカニズムのように感じ始める。

自然も人間も社会も何もかも、巨大なひとつながりのシステムに見えてくるだろう。自分もそのシステムの一部であると感じられる。

 

世界との境界線が消える一方で、自己の内面と他者のそれとの境界線が引かれるのに気が付く。

自分が個人として自律しているのを感じる。

 

「自分」というものが、くっきりと浮かび上がってくるのである。

 

 

使命を感じる

そうすると人は、生まれてきた意味が分かったような気になるのではないか。10年も20年もこれを繰り返していくことで、次第、次第に、自分の天命が見えてくるような感覚に襲われるだろう。わたしのこの人生における「使命」がわかったような、定められた使命を「なにか大きなチカラ」から告げられたような気になるものではないか。自分が大きな力の道具としてこの現世に生を受けたような気になるものではないか。

その時、自分が、現実の人間関係を冷静に見始めているのに気が付く。他者はもう昨日までの「恐れる相手」ではない。親も兄弟も恋人も親友も、一個の個人として尊重している自分に気が付くものであろう。親離れが完成する瞬間でもあろう。本当に人に優しくなれる瞬間でもあろう。

そんな人は他者から見れば、自信があるように見えることだろう。大きな何かの力に支えられているその内面は、他者から見ても、大きなものとして感じ取れるはずである。発する「ことば」だってそれまでとは変わってくるに決まっている・・・ことばに質量が生じる。同じことばでも腹にずっしりと響くようなものに変わる・・・

 

説得力がある・感染力がある・他者を動かせる

「自分のことばで語る方法論」が意図せず浮かび上がってきたようだ。

そこには、「宗教性」が必須なのである。何々教を信じよ、ということではなく(特に日本人には)、サムシング・グレートと呼べるような、何か、大きな力を感じる、それと共にある、そういう感覚を獲得することが必要なのである。

内面奥深くのどこかに、この広大な世界と地続きの地点を見定めることである。その時、形式論理的には他者のことばでしかない「ことば」の数々に力が込められ、聞いた他者は、そこにその人の「質量」を感じ取るのではないか。自分が言っているというよりもむしろ、何か大きなものに言わされているような感覚に襲われることすらある。それを聞いた他者は、その人の強い「意思」を感じとる。

 

ここだけは確かに論理を超える。

能動と受動が溶けあう「場」である。

他者への感染が生じるのもこの瞬間である。

 

 

科学では届かない、魂のありかに触れながら

「自分のことばで話す」ための処方箋を考えようと始めた議論である。壮大なところまで辿り着いてしまった。しかし、これこそ真理なのではないかと思う。

だから、科学的、形式論理的にはわかりようがない、日常の倫理の位相ではわかりえない、そう感じるのではないだろうか。自分のことばで話しているつもりでも、聞いた人の心は動かない、そうしたことも起きる原理がこのあたりにありそうである。

近代のことばでは(論理的には、科学的には、)こうした真理の「場」には届かない。私たち近代に生きるものには、魂を説明できないのである。

しかし、微積分が近似値を求める作法であるように、科学は「魂」の近似値には迫ることが出来る。最後の「場」には届かなくても、確かにそこに「ある」、そのことだけは確認できるのではないか。

 

人間は、その「ことば」そのものではなく、常に、背後にあるその人が抱えている「世界」を見ているのかもしれない。それが、近代化の進展で道具であるはずの「科学的思考=要素還元主義=形式論理的な発想」を「真理」だとベタに信じた結果、こうした「不思議」もきっと証明できるものだと勘違いしてしまったのである。エビデンスが示せると思いこんでしまった。科学で説明できないものは「ない」ことになってしまったのである。口にすることすら憚られるようになってしまった。

書いて文字にすれば「同じ」であるものに、実はこうした「違い」が生じるなんて想像すらできなくなってしまった。対面もZOOMも、同じことをしゃべれば同じ結果が出るはずと思いこんでしまう病でもある。

「誰が言うかより何を言うかが大事だ」そう近代社会では考えられているが、実は、本質は、何を言うかにもまして、「どんな人が言うか」がもっと重要なのではないか。その人が「宗教性」の場に触れようとしているかどうかが最も重要なのではないか、私はそう思う。

 

科学では証明できない、こうした「魂」のありかのような議論を、今、再び大真面目にしなければならないのではないか、と思う。そうしないと、近代化の呪縛から逃れることはできないのではないか。

 

決して、宗教を取り戻せ、というわけではない。

しかし、宗教のような「構造」を有する「内省」は必要だと思う。

 

「あなたは何をもって覚えられたいか?その仕事を通じて、社会に、歴史に・・・」

「自分のことばで話す」ための処方箋である。