マネジメント_困難の構造(2)
「課題カイケツ(解決)」から「課題セッテイ(設定)」へ
これは向き不向きの問題ではない。仕事を見るときの「視座」の問題である。仕事をどこから見ているかである。あなたはどこに立ってその「仕事」を見ているのか?あなたも含めた情況を見て初めて鮮明になり始める図柄である。
「課題カイケツ」は、仕事(タスク)が目の前にある。一方、「課題セッテイ」の際に目の前にあるのは「無秩序(混沌)」である。まずはデタラメな現象の束が現われる。
そこに「秩序」を与えるのは我々である。秩序とはすなわち意味であり、物語である。どこから来て、どこに向かうのか、自分にも他人にも納得のいく物語を語る必要がある。事の始まりと目的を鮮明にして、関係する人たちがワクワクするようなストーリーを「つくる」ことである。ゲームを攻略するのではない、そのゲームを「つくる」のである。
デタラメな現象が意味を持ち始めて自律しだす(自然と回りだす)かどうかが作者(課題セッテイ者)の腕の見せどころである。そのとき捉えなければならないのは潮流を形成するメカニズムである。現象の背後にある構造である。
そこに「予測」と「企て」の相反する二つの要素を加える。単なる「予測」だけでは天気予報と変わらない。どんなに情熱があろうと外界や他者を考慮に入れない自分勝手な「思い」だけでは行き詰まる。冷静に分析して把握された「外界」と、熱くタギル、ほとばしるような内面の「情熱」と、その両方が一体化し溶けあう一点を探す。「予測」と「企て」が一致する一点を探す(つくる)。
「課題カイケツ」と「課題セッテイ」は、位相がそもそも違うのである。見ている世界観が根本的に異なるのである。見ている視座が天地ほど違うのである。
それをしっかりと理解し、血肉化したい。
ことの始まりは「無秩序」でこそ_イノベーションの原理
もし、状況が鮮明に見えているのなら、それは「課題カイケツ」である。あらたなイノベーション(=マネジメント=課題セッテイ)とは「無秩序に秩序を与えること」なのであるから、はじめは必ず混沌が目の前にある。まずはふたつの違いを感じ取ることが先決である。
イノベーターは無秩序をこそ楽しめる。無秩序を、自分の内面の力だけでストーリーに仕立てるこをこそ好む。イノベーターはそれを知っている。
自分自身が、途方に暮れている、その情況こそ、イノベーションの可能性のサインである。無秩序がイノベーションの必要条件である。整理された事柄の理解・吸収は、「課題カイケツ」のためには必要だが、「課題セッテイ」というマネジメントの仕事には本質的にはなんの役にも立たない。
マネジメント初心者には、このことが理解できない。イノベーション前夜の混沌を楽しめない。
「課題セッテイ」は、月-金・9時-5時ワークとは真逆の作法
たいてい、無秩序が目の前にあると人は不安になる。原理的にはその時こそ飛躍のチャンスなのだが、多くは別の「秩序」にすがりつく。「安心」を望むものにとってチャンスはピンチでしかない。
すがりつく秩序は「時間割り」という名のルーチンであろう。月曜日から金曜日まで、朝の9時から夕方の5時まで、特に何も考えずに決められた場所に通うことは、不安から遠のき安心を手に入れる特効薬である。安心感と近代の呪縛はパラレル(同じ構造)である。安心=自己疎外の構図がそこには透けて見える。
安心を手に入れるこの原理は、時間を帯のようにイメージする近代特有のものである。多くの近代人が平均寿命まで無条件に生きると思っている、その老後の時間「帯」が典型である。同じように9時ー5時で机に座っていれば、とりあえずの「安心」は手に入る。
この「安心=ルーチン」をうち破る、いわば「近代」を神の目で見る作法がイノベーションの作法そのものである。そして、それが「課題セッテイ」の作法なのである。ゆえに、イノベーションを狙うものの「時間」は、帯のようではない。現実的・物理的には2年を要しようが、構想段階での体感速度は一瞬である。
「安心(課題カイケツ)」と「イノベーション(課題セッテイ)」はちょうど裏返しの関係である
「安心」と「不安」。「課題カイケツ」と「課題セッテイ」。「時間帯」というすがりつける確固とした「安心」と、「デタラメ・無秩序」に立ち向かう途方に暮れるような「不安」と。両者(カイケツとセッテイ)はちょうど表裏の位置づけにあると言えるのかもしれない。
我々が日常的に馴染む安心・安全のルーチンは、資本制という「近代」の内側、すなわち「時間割」から外れていないがゆえの「安心」であり、同時に感じる窮屈さである。一方、その「近代」の原理である資本制を、その外側から見て新たな物語を付与する作法は、「近代」という安心・安全の秩序から外に出る振る舞いであり、神の目で「時間割」を「つくる」ことに相当する。意味や目的を定め、ワクワクするようなカリキュラムを創造する作業である。
「カイケツ」と「セッテイ」には、公園のジャングルジムとヒマラヤ山脈ほどの差がある
情況を見定め、意味や目的を設定し、現実世界を一新しようと目論むのがマネジャの最初の仕事である。すなわち「課題セッテイ」。「それは何モンダイか?」と問う姿勢のことである。
モンダイを解くことと、モンダイをつくることは、言い回しは似ているが、まったく異なる作法である。それは「動物の目」と「神の目」ほどに違う。
かつて、かのアインシュタインは、「地球最後の24時間は23時間59分をモンダイ設定・課題セッテイに費やす」と言ったそうだ。課題が正しくセッテイされれば、自ずと答えは導ける、そう考えていた。
しかし、このことは、課題セッテイの方がはるかに難しく、しかし、同時に価値が高いことを示唆するものでもある。新任マネジャはこの断崖に直面するのである。昨日までジャングルジムに立ち向かっていたものが、急にヒマラヤ山脈に登れといわれたようなものである。
それに対応できない内面は、もとの馴染み深い「近代」の内側に戻ろうとする。そこから出でる罪悪感も相まって、ヒマラヤを登ろう!と決意するものは少ない。それは時に、「優曇華うどんげの花(3000年に一度咲くと言われる花)」と表現される内面の奇跡である。
問われているのは勇気なのだと思う
ようやくマネジメントの困難の構図が浮かびあがってきた。
それは「不安」を伴うものであることがわかった。
世界を内側ではなく、外側から見る視座が必要であることがわかった。
肉体は内側にいながら、意識だけ外側に飛翔する奇跡であることがわかった。
ゆえに、近代の内側に馴染む我々は、基本的に、マネジメントが苦手である。そもそも、その存在に気が付くことができない。それは原理的なものである。「一所懸命」の枠を超える、存在論的な位相の問題である。
現場仕事(課題カイケツ)からマネジャ(経営層=課題セッテイ)に立場が変わるということは、存在者でしかないわれわれに、存在論的位相への転移を促される契機である。
それは、勇気を持って、内面に「作為」を生み出す反転である。
目に見える関係のなかで、倫理的に「正しい」ことをして、心を平穏に保とうとする志向からは見えてこない、なにものかである。
時間を超越した内面奥深くの衝動に触れるなにものかである。
それは我々が、その視座において「神」になることなのである。
「ワクワク」する「不安」を楽しめてこそのマネジメントであろう。
マネジメント_その困難の構造。そこで問われているのは、頭の良さというよりもむしろ勇気のような何者かなのである。
「不安」は悪いことではない。
これがわかった時、マネジメントの本質がはじめて自分のものになり始める、
そう言えるのである。