マネジメント_困難の構造
困難との出会い
マネジメントの困難・ジレンマを構造的に描いてみようと思う。「一所懸命」に仕事に取り組むだけでは突破出来ない、俯瞰した「知恵」を必要とする、いわば「オトナの」距離感や緩急を要する「困難」である。事業や組織全体に目配せしなければならない事業部長・役員クラスへの昇進直後や起業したての若い社長などがぶつかる壁だと思う。勢いだけでは乗り越えられない、違った目が要求される。
Leadership is doing right things. Management is doing things right.
「リーダーシップとは正しいことを行うこと、マネジメントとは物事を正しく行うこと」ドラッカーの名言である。
正しいこと(指示されたこと)を行おう、そう考えているだけではぜったいに解けないマネジメントのコツとは何か。
「困難」の正体を説くカギは、
自分自身の、この二つの見方に気が付けるかどうか(要は、どちらで仕事を見ているのか?)、
そして、
「物事を正しく行う」とは何を意味するのか?
に答えることにかかっている。
若いうちに体験できることは少ないだろうが、その本質は、実はすべての近代人に関わるものである。その構造の被害者も加害者も、身に覚えのない人は実はいない。
その背景にある構造を浮かび上がらせたい。
それは、「課題」をこなす・乗り越えることが期待されるプレーヤーの仕事と、「課題そのもの」を正しく作る・設定することが期待されるマネジメントという仕事の違いに由来する。それまでは、上司から現場&個人に適した粒度の課題を提示され、「いついつまでにやってくれ」といわれて実績を積み上げてきたのに、マネメントになると、途端に他者からの「提示」が消える。さぁ、自分で感じよう、考えよう、状況を見極めよう、というわけだ。
すなわち、時代や業界動向といった外部環境と、内部環境である経営リソース(ひと・もの・かね)とのマッチングを構造的に理解する必要に迫られる。SWOT分析などお手のもの、会社の歴史も、業界の構造も、それなりには理解している。だからこその昇進や起業であった。しかし、実は、「状況理解」などやったことがないのである・・・。それを突きつけられる瞬間である。
機会は見えるがふさわしい人がいない。期待できる若手はいるがまだ経験が足りない。せっかく経験させたのに退職したいと言われた。いやいや、そもそも取引先がいない、どうやって選んだらいいのかわからない。やる気のある人?本当にそれでいいのか?・・・、・・・。やったことがない、そんなことばかりだ・・・、攻めるべきか、守るべきか、はたまた何もせずに待つべきか・・・。焦っている間に時間だけが刻一刻と過ぎ去っていく・・・。もう今月の締めが来た。これではアッという間に決算じゃあないか・・・。
課題を「こなす」と「つくる」とでは、実は180度視座が違う。仕事を見ている立ち位置が、真上からと真下からとまったく逆に振れるのである。そして、現場の仕事より、実は膨大な時間を要するのである。その知的世界は果てしない・・・
時間の流れが変わる
その結果、時間の流れが一気に変わるのである。もちろん感じる時間の流れである。物理的な時間の流れが変わるわけではない。当事者として感じる時間感覚が大きく変わる。
課題を目の前に示され、上司の期待の元、成果を上げることに必死になっていた時には、まず、「状況が見えない」ということはない。何をすればいいかわからない、そんなことはない。極端に言えば、状況理解を問われずとも仕事は成立してしまうのである。昇進を言われるほどの人であればなおさらだろう。上司の指示はわかりやすいはずである。ゆえに、時間にはいつも「追われている」状態。時間はいつも足りないのである。現場の仕事の方が忙しい。
しかし、経営層(マネジメント)に昇進すると事態は一変。まず、目の前にわかりやすい課題などなくなってしまう。その「課題そのもの」から考えよ、ということになる。やらなければならないことは、その「課題」とやらを見つけることである。いや、探すというより構造化する・つくると言ったほうがふさわしい。マネジメントにおいて、忙しくバタバタすることはご法度である。
昇格したポジションの上にも実は上司はいる。しかし、今度はあまり具体的な指示はもらえない。それを一緒に考えてくれ、となる。「何をすべきか、それはなぜか」が問われるのである。時間は一気に緩慢なものになる。何をすればどうなる、これをすればこうなる、そんな順序も大切だ。思考の対象は一気に広がり無限にも感じられるほどである。いや実は無限なのであろう。
全部と全体はまったく違うもの
世界が変わったのである。世界は「全部」から「全体」を見なければ見えないものに変化した。タスク管理のその前に、全体像・全体観を描かなければ歯が立たないものに変化した。ひとつひとつの星を数え上げるのではなく、星と星との関連性や、全体の布置から浮かび上がる「星座(物語り)」を見る視座である。見えるかどうかは、見ている自分次第である。そこに星座があるわけではない。「星々」を「星座」にするのは、見ている側が「星座」を内面化しているかどうかにかかっている。
目の前のタスクの延長に全体を接続しようとする思考では届かない。それはタスクの何百倍の大きさを有する。気にしなければならない「世界」は事業規模やフェーズにも依存するだろうが、目の前のタスクとは比較にならないほどの広大な地平への思考が必須である。財務情報だけでもそうなのである。いわんや人間をや、であろう。人の問題は底なしの不思議である。
海外でMBAを取得して意気揚々と起業した自称優秀なサラリーマンの挫折が相次ぐのは、この広大な世界を前提にしていないからである。MBAはあくまで要素還元主義のモデルである。経営の現場で想定される、様々な事象の中で、モデル化できるものだけを抽出して教科書に落とす。しかし、実際の経営はモデル化以前の事象が目白押しである。イノベーションとは、「今だ見たことのないもの」でもあるのだから当たり前である。現場、現場で、都度、必死に答えを出していくもの、それが経営である。MBAでは届かない。
「毎日、なにやってるんですか?」
最近は減ったように感じるが、昔はよく聞かれたものだ。
「社長って毎日なにやってるんですか?」
これはかなり深い質問なのである。要は、こういっている。見た目、動き回っているようには見えない。部屋に閉じこもっていることの方が多いように見える。営業や商品開発や、その他、わかりやすい「仕事」は部下たちに任せている。自分は「指示」を出すのみ。「それで、毎日何やってるんですか?」である。要は、近代社会の構造に触れる質問である。近代の内側にいる人間が、近代を外側から見ようと目論んでいる者に対する質問なのである。内側にいる人間は、内側にいるということそのものに気が付けない。要はマネジメントの存在に気が付けない。
近代社会とは端的に忙しい人が尊敬される社会である。逆に、怠惰は非難する理由の第一位であろう。怠惰な人は容赦なく社会からはじき出される。基本、いなくていい存在である。いると困る存在といってもいい。はじき出したほうも、それを見た他者も、はじかれた本人も、それを当然とする意識が働く。そこにはなんの罪の意識も感じないのである。経済成長を遂げた国ではなおさら。貧乏人に「人権」は存在しない。怠惰な人は、近代社会では「人」ではない。
これが内側にいる人間の反応の特徴である。
この心的構造がマネジャーにかかる圧力の本質である。「出世して、調子に乗ってんじゃねーの?」近代社会からの見えない声が、勝手に自分に罪悪感を感じさせる。自分で自分を疎外するメカニズムである。この時、自分もまだ近代の内側にいることに気が付いていない。
だから、マネジャの敵は他者ではない。こうした自分の中にもある「近代の呪縛」である。社会全体から植え付けられたもっとも根底で私たちを動機づけるエンジンである。
「まなざしの地獄」
見田宗介さんの著書に『まなざしの地獄』という本がある。高度成長期に日本で起こった連続殺人事件を社会学的に分析したものだ。犯人の特異性というよりむしろ、誰にでも降りかかりうる社会構造を取り出してみせてくれる。
私たちが毎日途切れなく感じる行動の動機は、「近代メカニズム」によるものがほとんどである。座席(そこそこいい社会的ポジション)から振り落とされたくないという不安がそれである。
そこには主体性などほとんどない。「こうしたい」より「こう言われないように」の方が強い動機となってしまう。それが「まなざしの地獄」の本質である。「あ、早く行かなくちゃ」と感じる心こそ近代が内面深くに浸潤している証拠である。「時間を守らなくちゃ」「約束は守らなくちゃ」と思ったことがない人はいまい。でも、その「思う気持ち」は基本的に受け身でしかない。外から強制された規範意識である。それほどに強力に近代は私たちの内面を縛り付ける。身近な他者の非難を予期して、あらかじめ先回りして「ちゃんと」しようとしてしまう私たち。めったに非難されることなどないと頭では理解しながら、その「予期」の呪縛はどこまでも、いつまでも、私たちを追いかけてくる。『まなざしの地獄』は、そうした構造を見事に抉りだす。マルクスがいう「疎外」を身近な事例で分析して見せる。見田社会学の威力を知る名著だと思う。
早く行かなくちゃ→がんばってるアピール
「早く行かなくちゃ」は、会社の中ではどう展開するか?それは端的に「忙しい」アピールというカタチで結実する。そこに何の本質的な課題がなかろうと「私は重要な仕事をしていますよ」というアピールだけはしとかないと都合が悪い。毎日、毎日、わたしは困難な課題を乗り越えようとしていますよ、となんとか周囲にわかってもらわなければ・・・そうした内面に発展する。実は、課題解決など考えていない。考えているのは非難を先回りして(予期して)つぶそうとする「不安」である。
そこに上司からの指示があるとほんとに助かるのである。「これこれをせよ!」そうした強制力はパワハラでも何でもなく近代人にとってのオアシスでしかない。大量の仕事も、実は近代から逃れる格好の口実でしかない。上司や会社への非難は、疎外された自己を正当化する典型的な被害者意識である。そして、それが「サラリーマン貴族」最大の特権なのである。近代の「構造的弱者」は、実は隠れた特権階級でしかないのである。
マネジャは貴族の特権を奪われた人
これを相対化できない人がなんと多いことか。自分が「主体性」など微塵も持っていないことを自覚できない人の多さが現代日本の病理を根底で支える構図である。
マネジャはこの構造に真正面からぶつかるのである。課題「解決」から、課題「設定」に、視座の転換を要求されたその瞬間、この「特権」は剥奪される。
「特権階級」からすると、その変異は、かたぎからヤクザへの変異に等しいものである。その「まなざし」に新任マネジャ(経営者)は苦しむことになる。
でも、いや、だからこそ、理論的な支えが必要なのである。こうした構図は、直接部門から間接部門への移動や、事業の超拡大フェーズ(流通100億規模から1000億規模)などにも見られるものである。要は、タスクより課題設定、その瞬間の出来事である。
(続く)