人生の峠に効く「振り返りシート」

人生の峠に効く「振り返りシート」

「振り返りシート」で自己の内面に冷静なもう一人の自分を育てる

わたしたちの会社では毎週「振り返りシート」なるものを提出してもらっている。それに、あたかも文通のように私がコメントを入れる。業務報告ではない。業務報告は別のラインで行っている。だからこれは週報ではない。社員ひとりひとりがする“内面との対話”の記録である。1週間分の出来事を内面史的に振り返る。それに刺激され社長も振り返る。自己の“ものの見方・考え方”の振り返りである。

だから内容は実に多岐に渡る。業務のことを俯瞰するような、または、取り組み姿勢・心構え的な内容を好んで書く社員もいるし、哲学的な会話を好むもの、仏教や世界史の本のこと、心に残る映画やYoutube動画などの話題に広がることもしばしばだ。それを起点に、その週に行った内省を記す。週報をきっかけに内省を深める社員もいるようだ。

私たちが棲んでいる近代社会は忙しい。振り返る時間がとても乏しい。いつもリングに上がってファイティングポーズを取り続けていなければならない。資本制生産システムを回転軸にした近代のグローバルシステムは一時も休まずぶん回る。ゆえに現代を生きる私たちには、どうしてもある一定の「タメ」が必要になる。ファイティングポーズを取る自分を突き放す、もう一人の自分を育てる必要がある。自分や社会を見つめるための内面に住むもう一人の冷静な自分を、である。それを育てる特別な時間を振り返りシートが確保する。

 

近代社会は「振り返り」がないと自分を失うようにできている

若いうちはまだいいかもしれない。身体も元気だし、世の中の不条理に気が付いていないことも多いので、勢いで押し切れる人も多い。盲目的にリングで殴り合っていても座席争いそれ自体がスポーツのごとく爽快である。周囲に適当な敵を見つけ角を突き合わせているのも心地いい。

しかし、女性なら30を目前にして、男性なら40を意識し始める頃、一度、人生の峠を迎える。“こんなはずじゃなかった感”に襲われるのである。それまで必死で頑張ってきた。でも、言われているほど幸せを実感できない・・・

小さいころから“あなたのためだから”と、言われたままに頑張ってきたつもりだ。時にはサボることもあったかもしれないが、基本、レールからか外れたくなる自分を押し殺してきた。社会的に公式に推奨される「生き方」をしてきたつもりだ。でも、その結果ってこんなしょぼいものなのか?なんか先が見えてしまったような気がする。急に生命保険が気になり始める。でもこれってそもそも意味ある????人生ってこういうものなの?????そして、不安が襲う・・・

それなりに推奨される座席を手に入れた人もいる。だからそれほど苦しくはない。私は結構いい列に並んでいる。前の方の人たちは、よく見えないが多分元気そうだ。でも、たまに小さいころの夢を思い出したりする。やっぱり大人になるって、基本、夢を諦めることなのかもしれない。そんなことを考えているうちに、また忙しい日常が始まって、そうした、“かけがえのない”私だけの思いは忘れ去られてしまう。そうこうしているうちに結婚したり子供が生まれたりする。子供は掛値なくかわいい。しかもとっても忙しい。そうしてまた振り返りの時間など蒸発して消えてしまう。もうひとりの自分って何だっけ?そんな暇などないよ。子供のお弁当を作るだけで精一杯でしょ。ママ友やパパ友とも付き合わなくちゃならないし。それが“子供のため”だから・・・

 

適合すればするほど自分を失う近代という社会システム

そもそも企業にも、その成り立ちからして、振り返る時間など取る余裕がない。最大の使命は、経済的価値の絶えざる創出である。それが社会から求められているメカニズム的ミッションである。それは誰でもわかっている。それを批判する人はいない。でも、日本の場合、何かがおかしい。決定的に重要な何かが欠けているように感じる。だって、企業社会で働く人に経済的価値の創出が望まれているからといって、働く人の内面の幸せを犠牲にしろってことは流石にないだろう。社会だってそれを望むとは思えない。では、何がおかしいのだろう。

日本は明治以降の富国強兵政策が、実はいまだに続いている。かの大戦で負けた後、その傾向が復活したといってもいいかもしれない。どちらにせよ、今は、明治期の富国強兵政策のままである。それが如実に現れているのが教育の現場である。本来、人間一人一人が幸せに、内面の自由を獲得するために民主主義の教育はある(はずだと思っている)。しかし、現状はそうなっていない。小学校から、いや幼稚園から、その目的はいい座席の確保である。それが“あなたのためだから”と我々は毎日言われて子供時代を過ごしてきた。学校は規則でがんじがらめ。いまや、放課後に校庭で遊ぶことも許されない。いま、ちょうど都知事選の真っ最中であるが、こうしたことを公約に掲げる候補は当選しないようにできている。都民ファーストという捉えどころのない美辞麗句を並べる気持ちの悪い道化師がその権力を独占する。

 

本当は小中学生のころから振り返りを行うべき

教育のど真ん中には「振り返り」がなければならないのである。それは近代社会の鉄則である。そうしなければ、ぶん回るシステムに対抗することはできない。“あなたのため”や“こどものため”と称して、システムに乗ることばかりを教え込まれては、人間は容易に働きアリとなる。人間にしか備わっていない「学習機能」は、アリの堅い外皮のごとく死滅する。心の真ん中がポッカリ空いてしまったその外皮が堅く化石化すれば、もはやその中を自分でのぞき込むことはかなわない。ぶん回るシステムに依存する以外に、ドでかい空虚は埋まらない。こうして人は主体性を放棄し、会社からの命令を、従順に整列して待つようになる。他責の構造が完成する。そこに内面はいない。いるのはシステムの被害者だけである。

 

「振り返りシート」は私たちを社会の暴風雨から守る防波堤

わたしたちの「振り返りシート」は、こうした社会構造が直接個人の心を襲うことに対する防波堤である。近代日本社会において、社員ひとりひとりが内面の充実を図るための「タメ」を作る場である。だから、仏教や心理学、人生の話をする。学生が就職活動の時にやった「自分とは何か?」の問いを大人が真剣にやり続けるのである。それはどうしても必要なことなのである。日本社会のメカニズムを考えると、それなくして、主体的に考える社員が会社を引っ張っていくという構造は出現されえない。ピーターセンゲの『学習する組織』も日本では根付きようがないのである。

カギは一人一人の社員の心のうちにこそ存在する。われわれ日本人が会社で幸せになるために気にかけるべき場所は、私たちひとりひとりの内面にこそあるのである。それを「振り返りシート」がつなぎ合わせてくれる。組織としての大きな1枚の織物がこうして紡がれるのを待っている。