芸術ってなんだろう?

芸術ってなんだろう?

芸術大学では何を志向しているのだろう?

最近、芸術大学のことを考えることが増えた。それは芸術大学の学生さんと就活の現場で接するからなのだが、そんな折り、ある文章を読んで、改めて「芸術」というものについて整理してみたくなった。というか、「整理すべき」、そう、その文章から促されるようだったのだ。その文章はこの『かさね書き日記』の「社員の横顔」に掲載されたもの。芸術大学から入社したうちの新卒のものである。その真剣さに心が動かされたのだろうか。応答しなければならない、そう思わせてくれたのである。

 

その社員の文章の中に出身の大学のホームページに掲げられているという文章が引いてあった。孫引きしたい。

 

「するどく問題を発見する目を持ち、豊かな想像力で、その問題を解決する形や仕組みを提案できる。芸術には、そんな能力を育てるチカラがある。」

 

どういうことだろう?

「芸術にはそんな能力を育てるチカラがある」とはどういうことなのだろう?

私は「芸術作品」というものを作ったことがない。でも、こうも直感した。なんか事業とか会社に似ていないか?事業を作っていくその過程が、この「するどく問題を発見する目」を育ててくれる気がするし、会社というものには、やりよう次第では「その問題を解決する形や仕組み」を宿すこともできる気がする。金儲けだけではない(ちゃんと近代を相対化して見れば・・・)真の課題解決装置たることができる、少なくとも理論的・戦略的には・・・

 

芸術と事業・会社と。大事なことは重なるのかもしれない。それをちゃんと整理しとかないといけないな。それも私の責任に違いない。新入社員の真剣な「ことば」に組織のトップは答える必要がある。わたしが新人の時、そう思ったことも思い出した。だからこれは、30年前の自分への応答でもある。

 

「娯楽」とはファインチューニングのこと

「娯楽」と「芸術」は違う。社会学者の宮台真司さんがよくこんなことをいう。「娯楽」とはファインチューニングのこと。芸術を説明するその対比で、芸術ではないもののことを表現した言葉である。その作品を見た人間の内面がすっきりしてまた明日から頑張ろっ!ってな感じになるような、そうした作品は芸術ではなく「娯楽」というのだと。別に娯楽を否定しているわけではない。娯楽も近代にはある程度は必要だと思う。でも、娯楽にはこの社会や世界の真の問題を「知らしめる」チカラはない。真理を「見える化」するチカラはない。娯楽はその「真の問題」から目を逸らさせるだけ。見えないようにして心を一瞬軽くするだけなのである、と。その後、再び現実に浸ったとき、より大きなダルさを感じさせてしまう、そんな麻薬のようなメカニズムを宿すもの、それが娯楽というものの性質である。宮台さんはそう言っているようだ。

 

芸術とは傷つくもの

では、ファインチューニングではない「表現」とはどんなものか。宮台さんはこうも言う。芸術とは「それに触れた人が傷つかざるをえないもの」である、と。この社会・世界の真の問題を真正面から見せてくれるもの、私たちにそんな気づきを与えてくれるそんな表現ということだろう。簡単にすっきりさせてくれるチカラは逆にないのかもしれない。そこには「思考」という、自分の内面の努力が補わなければならない要素も多い。でも、傷つくほどに真の問題を知らしめるその表現力が、私たちに存在論的な位相に転位するきっかけをくれるのである。深いレベルでの癒しを私たちに与えてくれる可能性を秘める。日常の人間関係などどうでもよくなるくらい、人間存在の普遍的な課題に目を向けさせてくれるチカラである。濃く重厚な課題に目を開かせてくれるチカラである。

人間はそんなとき「現実」を相対化できる。芸術は人間を倫理の問題から解放してくれる。自分が浸っている日常を神の目で見ることができる。欲と計算まみれの世界に「神の王国」を感じさせてくれる瞬間である。急に近しい人に会いたくなったりする瞬間である。日々の些細なことを楽しめる自分に気が付く瞬間である。芸術にはそんなチカラが宿っている。人は深く傷つくほどに優しくなれる、しがらみを超越する翼を手に入れる。どこか恋にも似たメカニズムである。

 

傷つくとどうして癒されるのだろう

映画でも小説でも芸術的に高い評価を獲得している作品は、ちゃんとその意図を理解しようと一生懸命に集中して見るとかなりの疲労を感じるものである。私など、それが嫌でわざとドタバタ劇のアメリカ映画を選ぶ時もある。でも、やはり娯楽の限界をすぐに感じて「深く傷つき」たくなる自分に気が付く。表層的な文脈に浸った自分の内面を浄化したくなるような気分になる。脳みそを洗濯機に突っ込みたくなるような衝動に駆られる。苦しくてもいいから「強度」が欲しくなる。真の課題に向き合っていたくなるのである。

でも不思議だ。どうして解けない「問題」に向き合うと人は浄化されたような気持ちになるのだろう。目を逸らすのではなく真正面からデーモンを見据えることがどうして人を癒しに導いてくれるのだろう。あたかも「正しく絶望すること」こそ幸せへの入り口なのだとでもいうように。

 

やはり、人生は「苦」であるのか・・・でも

仏教の教えにある「人生は苦である」という言い方を思い出す。近代以前に生まれた仏教だが、やはりより普遍的な真理を指す言葉なのだろうか。芸術を考えるときどうしても思い出してしまう。構造がそっくりである。

「近代社会」は無間地獄のようなもの。私たち近代人はそこから逃げることは叶わない。死ぬまで付きまとうもの、それが近代という仕掛けである。そして、そこから気付かず逃げようとするとより苦しくなってしまう、そうした原理を内包する。勝ち組・負け組図式の土俵の上で一喜一憂すること、高級車に乗るべく目標を立て今を忘れるように心を操作すること、タワマンのより高い階に住んだ自分を想像して目の前の嫌な奴に優越感を感じようとすること、母の愛情という偽装された仮面の下で抑圧された恨みを晴らすこと・・・私たちはみな気づかないうちに近代の魔術に囚われる。マルクスはそんな私たちの心を指して「疎外」と呼んだのである。見田宗介はそれを「○○への疎外」と説明した。近代人の「苦」は、基本的に「座席争いへの疎外」から生じるものである。勝ち組も負け組も、みな、同じ土俵の上である。よかれと思った一生懸命が、自分や仲間を苦しめる・・・そんなメカニズムの中にいる・・・近代人の人生もやはり「苦」であるのは確かなようだ・・・

 

それでも私たちは、普段、「近代」を意識できない。近代に限定しなくとも、ブッダのいう「無常・無我」の世界を意識できない。忙しい毎日が、それを阻む。時間を守りなさい、遅刻はいけないこと、という近代の倫理が私たちを「疎外」された存在へと追いやっていることに気が付かない。倫理的に非難されないようにする努力そのものこそが疎外というメカニズムの原理であることに誰も気が付かない。

いや、気が付いていないのではない。気が付きたくないのである。気が付いたら困るのである。気が付いたら近代の枠組みから外れてしまう。カタギとして生きていけなくなってしまう。「あんな」ヤクザのようなどうしようもない人間になってしまう。枠から外れた人を非難することで辛うじて正気を保っているのがわたしたち近代人の姿である。

 

でも、人は実は深いレベルでそれを知っている。それを破壊したい衝動を抱えているのである。人は自由になりたいと願う。平等や秩序などクソ喰らえ、そうした衝動をどうしようもなく抱える存在である。ちゃんと、ちゃんと、など、実はしたくなどないのだ。

 

そうした、深い存在論的レベルでの文脈に私たちを導いてくれる「なにものか」をこの地上に存在させることが出来たのなら・・・こんな素敵なことはないのではないか。芸術とはその「なにものか」である。「傷つき・絶望」することで心を浄化させてくれるもの、人が根源的なレベルでどうしても求めてしまうもの、そして、世界から呼びかけられたような温かさをも内包するものである。身体的な集中力を企てた結果として、観念の世界で「向こう」から訪れる恍惚である。少なくともその一瞬、人は近代を超克する。せわしなく働く日常の時間を忘れることが出来るのである。肉体がそこに居ながらにして、心だけ翼を持ったように上空を羽ばたく・・・

一瞬、そよ風のように、一瞬・・・

 

わたしは、その「なにものか」を「芸術」と呼びたいと思う。

芸術は私たちを存在論的な地平に連れて行ってくれるリズムである。

私たちの心の襞に触れるささやきのような熱である。

だからきっと、芸術作品とか、事業とか、会社とか、そういう俗な仕分けを超越してしまうのだ。

それが「芸術」であるかどうかは「存在者」の位相では語れない、きっと「存在論的」な位相の話なのだから。

 

「存在的な」問題と「存在論的な」問題がどうして切り替わるのか、そのスイッチはどんなカタチをしているのか、今は明晰に語ることばを持たない・・・

もしかしたらその問題設定自体が間違っているのか・・・

もっともっと考えてみようと思う

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

粗雑ではあるが、これが今のわたしに書ける素直な芸術観である。

新卒と30年前の自分への応答としたい。