常にマージナルたれ!

常にマージナルたれ!

マージナルとは「周辺・縁(ふち)にある」ということ

マージナルとは中心ではなく周辺、中心から遠い縁(ふち)のことである。その時代において、または、身近な人間関係において、「中心」ではないという意味である。誰の目から見ても承認を受けているものの見方・考え方・作法・振る舞いではないということである。あくまで強調したいのは「おおかたの観念」であって、現実の社会的地位のことではない。もちろん含むこともある。でも、強調点は目に見える地位にはない。目には見えない、この社会の観念上の位置(本人の「つもり」の位置)が周辺的であるということと理解していただきたい。多くの人々の頭の中にある、その時代のステレオタイプの(あえていえば「フツー」の考え、大衆のそれ)「ものの見方・考え方」に受け入れられている行い、それを体現している作法ではない思考をする者が取る立ち位置のことである。今はまだ承認されていない考え方のこと。はぐれもの、変わったやつ、時に疎まれ者扱いされ傷つくこともある、そうしたポジションのことである。

逆に、マージナルではない立ち位置から「マージナル」を照射するとわかりやすいか。マージナルではない立ち位置を「中心」と呼ぶとすると、「中心」もしくは中心に近いものは、例えば「社員」、例えば「主婦」、例えば「職人」、例えば「母親」をイメージするとわかりやすいだろう。少し視野を広げると、それは名の知れた大企業の部長だったり、○○省の役人だったり、○○大学のOBOGだったりするだろう。時にそれは「学生」「子供」「先生」「教授」「医者」だったりするかもしれない。有名大学卒の中年男が用もないのにOB会に出席したり、飲み会に参加する動機はこの「中心」にいることを確認して安心したいからであろう。そこに気にくわない奴がいても、それを上回る動機を彼には提供するのだろう。「そうである」と自他ともに認識するそれだけで心の安寧が得られるポジションイメージである。近代社会においてはその数は限られていて、しかし、誰しもが想像できる社会的な「座席」である(ここでもあえて言えばフツーの人々が憧れる、ぜひ手に入れたい立ち位置をイメージするとわかりやすい)。すべての人が疎外状況に晒される近代資本制社会にあっては、それは確かに「避難場所」として機能し、そこに陣取るだけで他者からの批判を跳ね返すチカラをも有する。それが「中心」のイメージである。中心=安定、とすればより分かりやすいか。

しかし、社会の「中心」であるという意識は、ただ「中心」というだけで同時に何かが淀んでしまう宿命でもある。そこに座る人間から危機意識を静かに抜き去り、未来を作る能力を略奪する。意思をはく奪し、価値観をもはく奪する。自分が何が好きで、どう生きたいのかという考えそのものを奪い去る力学である。それよりもなによりも、そのポジションに居続けることそのものが人生の目標・目的になってしまう。「人生で何を実現したいのか?」というよりもむしろ、何があってもその座席にしがみ付くこと、を優先させてしまう心の構えを育んでしまう。これがマルクスのいう自己疎外というメカニズムである。疎外は「中心」にいる、または「いよう」「いたい」と考える人間の内面を育てていく。「○○への疎外」に他ならないのである。

 

近代の呪縛から逃れる唯一の方法_マージナルたること

近代社会は、それが意図されたものだったかどうかは脇に置くとしてもメカニズムとしては、個人の安寧を求めた結果出来上がったものであったのは確かなのだろう。皆が幸せになりたいという気持ちが近代社会を作るエンジンであったし、それは今日でも変わらない。それは、言い換えると「中心」を創造することと言ってもいい。安心・安全・便利・快適な立ち位置の創造ともいえる。しかし、そのことは同時に人間の生に対する自己欺瞞を覆い隠し、結果、個人から生きる力をはぎ取る機能を有するのである。貨幣経済をきっかけとしてエンクロージャーを濫觴に始まった近代経済社会は、同時に、物化・物象化・疎外というメカニズムを生み出してしまった。それが近代社会、マルクスのいう資本制生産システムである。その全体性からは原理的には誰も逃れられない運命なのだが、その原理は「中心」を求める内面がさらに呪縛を強化するという仕掛けになっているのである。逃れる方法は唯一、自分の内面を反転させること、すなわち、「中心」から遠ざかろうと意図すること、マージナルたろうと企てることである。自分自身がはぐれものであろうと意図すること、常に社会の、そして、時代の周辺であろうとすることを好むことである。社会の「縁(ふち)」から「中心」を眺め、もっと面白い社会に変革してやろうと誓うことである。人生に「安心」より「強度」を求めることであるし、感情を抑え込むのではなく発露することをあえて選ぶことであるし、永遠の昨日に安心するのではなく、今日の行動で明日を変化させることをこそ求める生き方を選ぶことだろう。端的にもっと「生きよう!」とすることである。マージナルにあるものは混乱を恐れない。むしろ楽しむ。。。

「中心」から眺めると、マージナルは損に見える。「損得勘定」の枠組みでは「損」、時には「危険」にすら見えるのである。でも、それこそが、その心の状態こそが、自分の心が「疎外」されていることを証明している。自分が「近代の内側」にいることを証明してしまっているのである。損得勘定・損得計算、無駄の排除、予測可能性、合理的な世界、効率的に決定する・・・それこそが近代社会の特徴であり、マルクスのいう資本制生産システムなのだから。

疎外というメカニズムがなくなることはない。おそらく、未来永劫続いていく。終わりなき日常、終わりなき退屈である。しかし、マージナルであろうとすることにより、そのメカニズムは自分の内面を「外界に捉えられるもの」から「外界を捉え返すもの」に変化させられる。外界それ自身は変わらないのであるが、心をひっくり返すことで「利用される圧力」から「利用する仕掛け」へ外界を変えられるのである。近代社会という連環が「呪縛の檻」から、世界に張り巡らされた「強力な武器・ネットワーク」に変わるのである。

 

マージナルであろうとするから「本当の自分」に気が付ける

近代社会のメカニズムが自分の内面までをもわしづかみにしているというその事実に気が付いていない人に、他者が気が付かせることが出来るのか?これはまさに「鍵のかかった箱の中に入った鍵」である。論理的には解きようがない。まともな方法はどこにもないである。ショックが必要である。箱を壊す必要がある。「もしかしたら自分はこの会社に必要とされなくなるかもしれない」「このままでは生活がどん底に突き落とされてしまうかもしれない」そんな不安な気持ちやバカにされた時の悔しさや怒りの感情、そんなものが必要である。必要なのは「分析」的知見ではなく「開き直り」「あきらめ」、そうした仏教的な「智慧」である。

もちろんリスクもある。気が付かずに、ただショックを受けただけ、そういうことも起こりうる。一生、気が付かないこともままある。それは誰にもわからない。本人がそう思うかどうか、思えるかどうかではなく、強引にでも思おうとするかどうか、それにかかっている。中途半端な不安や怒り、焦りの感情から脱出し覚悟を決める。この状況からは逃れようがないということを受け入れることしかない。正しく絶望するしかない。子供の頃に夢見た「白馬の王子様」願望を捨てること。「ここではないどこか」にきっと自分を認めてくれる人がいるはず、そう思うことを「あきらめる」ことである。

でも、覚悟を決めると見えてくるものがある。自分を取りまくどうしようもない呪縛のメカニズムが見えてくる。もちろん、リアルには見えない。実数ではなく虚数である。それは想像上の呪縛である。しかし、人間の心にとってはリアルなのである。

考えて見れば不思議だ。そもそも心がリアルではないにも関わらず、私たちはリアルな存在として意識している。心は目には見えないだろう。その見えないものに誰しも囚われてしまう。それが人間である。じゃあ、その心は何によって縛られているのか?その重要な要素の一つが近代のメカニズムなのである。資本制生産システム、自分の「心」を「中心」へと誘う力学である。考えようとしているわけではないのに「中心」への恋焦がれ現象が心の中に現象してしまう。その「心のメカニズム」を「疎外」というのである。

その存在に気が付くと、人はまず絶望するだろう。そして、逃げることを考える。しかし、いずれ逃げられないことにもまた気が付いてしまう・・・。その時である、覚悟が決まるのは。どうせ逃げられないのならば、それとうまく付き合っていくしかないな。人間なら誰しもそう思うだろう。心が反転する時である。近代の呪縛を武器として利用してやろうという契機が訪れる。

「覚悟(=マージナルであろうとすること)」は、損得勘定の「賢さ」よりはるかに価値が高い。「覚悟」は心に「価値観」を芽生えさせる。自分が本当は何が好きで、何をやりたいのか、を示してくれるのである。それはあたかも天の啓示のようである。コーリング_Calling(キリスト教では天職の意味)とはよく言ったものだと思う。まさに宇宙の摂理に触れたような気がするのである。自分が宇宙の一部であるかのような気さえしてくるかもしれない。生まれた意味が分かるかもしれない・・・

 

むしろ「無意味」と感じることの中にこそ

近代で戦うには武器が必要である。武器とは「疎外」という「理不尽を見抜く力」であり、「理不尽を逆転利用する力」である。メカニズムの回路を通して「他者を喜ばせることで自分の喜びを享受する力」である。幼い感情のままに「直接的に」喜びを享受するのではなく、メカニズムの回路を通じて喜びを享受しようと企てるのである。そうした「心の構え」そのものこそが武器なのである。

卑近な例で言えばそれは、上司の強引な飲みの誘いの席で努めて他者を喜ばすことである。営業で数字のために嫌な顧客を接待することである。自分自身がお酒を楽しむことを脇に置き、他者を喜ばす回路を通じて(時間差で)自己の喜びを達成しようとする作法である。これはマーケティングの作法にも通じる。会社で数字を作るメカニズムに明確に通じる。近代社会は、「他者性」の回路を経由して自己の心を満たすことを考えなければならない、そうしたメカニズムを持つのである。それが近代社会=資本制生産システムである。近代を覆う原理である。

20代の頃にはお酒の席が苦手、という社会人も多い。友達と飲みに行ったりカラオケにいくことはあるが、仕事仲間で飲みに行ったり、上司のためにお酒を注いだりは決してしない。基本的に無駄だと感じてしまうのであろう。無意味だと感じてしまうのである。でも、その「無意味」という感覚(心の作用・メカニズム)が「疎外」の結果であることには思い至らない。

ちょっと反省的に眺めて見たらどうか。そもそもこの世界は「無意味」でしかない。ならば、その「無意味」に耐える練習とでも捉えてみたらどか。仕事場で会う上司とわざわざ飲みに行かなくても、そう思う心の習慣も「中心」を求め安心にすがる疎外現象とパラレルなのだから。

生きることに「意味」はない。しかし、「意図」は少なくとも持たなければ甲斐がない。だから、常にマージナルたろうとすること。それは「無意味」に飛び込む勇気でもある。計算可能ではない予測不能な未来を企てることである。その心が、近代と戦う最強の武器である。

未来を企てよ。予測不能・計算不可能・無意味な世界に飛び込んでみよう。常にマージナルたろう!

それこそが近代社会でワクワクしながら生きる唯一のコツである。