「希望」は近代の外にある
みんな「希望」が欲しいのである
事業を長年やっていると気が付くことがある。みんな希望が欲しいのである。どんな種類のものであっても構わない。たまたま関わったことでも構わないから、ワクワクする未来を見たいのである(まあ、人生の半分以上はたまたまだが)。
でも、この時代、希望などどこにあるというのか?みな、そう考えているように見える。
いくら考えても見えてこない
そうしてなんとなく、または、すがるように、本を読んでみたところで希望は感じられない。社会を理解し、事業を理解し、マーケティングを身に着けたとしても、内面を熱くする感情は生まれてこない。せいぜいがマウンティングの手法である。これはいったいどうしたことか。何かが根本的に間違っているのかもしれない。果たして「希望」ってなんだろう?
でも、近代の構造を理解すると見えてくるものがある
冷静に近代という時代を観察してみる。すると見えてくるものがある。近代とは原理的に人間から感情を奪い去るもの。安心・安全・便利・快適を目指した代償として、目の前の危機は去ったが同時に、ワクワクする感情も生まれにくくなってしまったのである。柄谷行人さんの鋭い批評に通奏低音のように響くのは、そうした近代の絶望的なメカニズムを見つめ続ける視線であった。西南戦争の時の西郷のような熱い心は、あの時、死んでしまったのである。日本はその「心」を西洋列強に占領されないことと引き換えに明け渡してしまったのである。明治の文豪夏目漱石はそのことを対象化しえなかったが、内面は知らぬ間に蝕まれていたのではないか、そう柄谷さんの批評にはあった。
西郷の頃には内省は希望を生んだ。しかし、近代化に舵を切ったことで内省(論理的思考)は希望を生まないものになってしまった。私はそう理解した。
近代では、「理解」からは希望は生まれない
結局、今でも日本社会は理性の時代でしかない。科学的な分析でなんでもかんでも言わなければならない、そんな時代の雰囲気に重く閉ざされている。証拠はあるのか?いつでもどこでも怯えて発言することになる。だから息苦しい。
でも、科学は答えを教えてはくれない。状況の説明は可能だが、どうしたいか?は決して教えてくれないのである。科学的成果をどう使うかは、その時代に生きる私たち一人一人の意思でしかないのである。
(科学的思考❶❷参照してください)
近代は絶望のループ
こういうことだ。私たち近代人が拠り所とする「科学的思考」は状況の「理解」には結構、角度高く使える。しかし、価値は教えてくれない。理科系の学問は価値フリーなのである。私たちが慣れ親しんでいる科学という言語は、それだけで希望を奪い去る構造をしているのである。どこまで行っても出口のない無限ループをぐるぐる回り続けるのみ。それが近代という時代なのである。内面は時代に支配される。ゆえに、今が近代である以上、理屈(論理思考)では希望は生まれない・・・
「希望」だけは、理屈の外、近代の外に存在するものある。
「希望」は論理の届かないところにある。「愛」にも似ている何かである。
ならば、ちゃんと絶望すること、底をしっかりと打つこと
ならばどうするか。近代で希望を抱くことは出来ないのだろうか。
いや、そうではない。近代の外に出るのだ。意識して、論理の外を覗いてみようとするのである。
技術的にいうと、こうではないか。
近代の中を徹底的にわかること。絶望的な構造を嫌というほどに理解することである。ちょっぴりの希望も近代の中には残っていないのだと徹底的に知ることである。
近代には希望などないことを腹の底から理解すること。
そこにあるのは「絶望」だけであると徹底的にそのメカニズムを理解することである。
底を打てばあとは上がるだけ、それが希望なのかもしれない
でも、底をしっかりと打つと、なぜか人は安心するものらしい。もうそれ以上の下はないからだろう。あとは上に上がるだけ。誰でも気が付く理屈である。地の底の底に行ったことがある人がどれくらいいるかは知らないが、守るものがない人は強い、という言い方があるように、極端に振られると人は自然とその反対を見ようとするものらしい。下の反対は上、単純な図式である。
近代の反対側には希望しかない。だから、徹底的に絶望を見に行くのである。
近代を使い倒すには?
日本人は近代をうまく乗りこなせていない、とはよく聞く言説である。でもそれは、「近代そのもの」に希望を抱いているということと同じことなのではないか?近代の内側で希望を探している。
近代に希望などないのである。
それを徹底的に知ること。
するとちょっぴり希望の光が差し込んでくることがある。
極単に振って考えて見る。
近代を徹底して、そして、近代の外を見る。
これも近代の作法なのだろうが・・・