内省、それは無間地獄

内省、それは無間地獄

柄谷行人さんの漱石論

柄谷行人さんの『漱石論集成』という新版の文庫本を手に入れてその講演録を読んでみた。最近、とみに気になっていた柄谷行人さんの漱石論。どんな風に捉えているのか。小説を面白いと感じたことがない私でも、何か興味深い切り口に出会えるかもしれない、そう思ってのことである。

その帯にこうあった。「マルクスを読むように漱石を読んできた・・・」もうこれだけで震えが来た。なるほど!そういうことなのか。

夏目漱石は約10年程度ですべての作品を仕上げて死んだらしい。そしてその前に『文学論』というもっとも読まれていない作品を書いているという。しかし、私はこの『文学論』にもっとも興味がそそられた。柄谷さんもそんな視点で漱石を見ているようだ。漱石は、西洋を追いかけようとする時代の雰囲気に絶望しながらも、英文学を学び、それを乗り越えようとしたのだと別の本で読んだからだ。『文学論』とは意味を紡ぐことばの連なりを体系立てようとする試みらしい。漱石はもの凄く論理的な人であったようだ。漱石も時代に悩み、立ち向かった人。その術が文学であった・・・

柄谷さんも、漱石も、その仕事のエネルギーは時代への絶望・・・

立ち向かうための、手持ちのわずかな「武器」は、「ことば」だけである。

私たちに残されたのは「ことば」だけ・・・

なぜか涙が出そうになる。

 

内面を掘っていったら核にたどり着くのか

柄谷さんも漱石も、天才的な観察眼を持つ人だから当然気が付いている。内面など掘っていってもどこにも核のようなものなどないのだということを。それでも、西南戦争くらい(明治10年ごろ)まではまだ、日本人が内面のスカスカに悩むことはなかったらしい。それが西洋化・近代化によって急速に内面は空洞化していく。人間の内面など関係から立ち上がるのでしかないのだから、その内面を取り巻く時代という環境が近代化というフラットなペロンとしたものになっていったとしたら・・・人間は動物のように、ただ飯を食って、恋愛して、寝るだけの存在になってしまうのは必然。自分の実存そのもので苦悩したり歓喜したりすることはもはや出来ない、そういう結論しか出てこない。明治初期の日本人にあって、今の私たちにないものとは何なのか、つい考えてしまう。

 

今はすでに21世紀。

気分はさらに絶望的になった。

 

思っているのか思わされているのか

内省を繰り返し、自分の気持ちをいくら振り返ったところで、それが本当に自分の気持ちかどうかなどわからない。自分は、思っているのか思わされているのか・・・。デカルトはこの人間存在の不思議を断ち切り、思うことこそ自分の存在だとして近代を開いた。しかし、日本人は今だ近代には馴染めない。近代はすべてフェイクでしかない、そのことに気が付けない。ベタで近代に浸りきる。だからエネルギーが出ないのである。

私たちの絶望的な状況から目を背けるから、元気になれないのである。近代を使いきれないのである。

 

近代が終わりのない無限ループであるならば・・・

内面が関係から立ち上がるものでしかないのならば、21世紀という時代は最低な時代でしかない。近代がすべてを画一的で入れ替え可能なものを目指すのなら、わたしたちの内面もなんの凹凸もないフラットなものになってしまうだろう。人間はもはや動物になり果てるしかすべがない。どんなに抵抗してみたところで無駄である。巨大ハリケーンを素手で止めようとすることに等しい。私たちの内面はすでに無意味の無限ループに取り込まれているのである。そこにはもはや「意味」という気の利いたスパイスなどはない。そこには、栄養のためだけの味気ない健康食品があるだけである。

 

葦のようにただ流されて生きること

だとするならば、すべてを環境に任せるように、葦のように風に吹かれるまま、意思なきままに生きるのもいいではないか。それを誰が否定できようか。たとえそれが巡り巡って他者を搾取することだったとしても、そんなこと可視化されていないのだから自分の心は痛まない。時代の流れは私のせいではない。マルクスがいう物象化は、漱石すらもどうしようもなかったのだ。まして私ごときがどうにかできる敵ではない・・・

 

くそったれ、虚しい・・・

これじゃあ、ただのクズだ・・・

 

内省の無間地獄があるからこそ「あえてするロマン主義」が立ち上がる

ならば、と「あえてするロマン主義」に生きる方法が起業である、と言い切ってみる。起業とは成功が約束されていないのがいいところなのである、と。精神的にも、肉体的にも、社会的にも、世間的にも、壁ばかりなところがいいのである、と。特に日本では起業する人間は基本的に嫌われる。最高じゃないか。

起業とは、事業とは、「あえて」するものでしかない。あえて、その混沌に身を投じる、そういうものである。

 

柄谷行人と漱石とマルクスと、わたしの場合、そこにミスチルも加えとこう

 

出口なき無限ループであることから抜けられない近代における「内省」を、それでもなぜ続けるのだろうか。近代の内省は原理的に無間地獄でしかないのに。

でも、その地獄に足を踏み入れなければ、もはや人間は「意味」など感じることが出来ないのだろう。

 

もしかしたら内省の目的は、私たち近代人の置かれた悲惨さを、ちゃんと、しっかりと、絶望することではないか。

 

そう考えると、なぜか、巨大なむなしさの中にも、ちょっぴり勇気が差し込むのに気がつくのである。