『ミスチルで哲学しよう』息子が本を紹介してくれた
息子は中学3年生
先日、息子から「『ミスチルで哲学しよう』って本があるよ」と聞いた。「え?読みたい」、とわたし。「今学校に置いてあるから今度持ってくるね。」そして、昨日、持ってきてくれた。
息子は今、中学3年生。高校受験をまじかに控えるデリケートな時期を過ごしている。でも、だからこそ哲学してほしい、私は切に願う。
受験勉強とは答えのある世界。問題のつくり手は、わざわざ明確な答えが記述できるように操作する。生徒はそれを一生懸命に身体に染み込ませる。哲学とは真逆の作法がそこにはある。目的は生徒の仕分け。安く、早く、次の期の生徒を確保して・・・、見ていて心が痛むが、母親もろとも驀進する姿に父親としてはなすすべがない。
でも、息子は哲学を気にしてくれている。わたしと同じでミスチルが好きだ。哲学的なその歌詞に魅入られている。わたしはそこに救いを見出す。
答えのない問題へ取り組む意義
生きる力とは、答えのない問題に取りくむ力である。答えのある問題を解く力は損得勘定である。損得勘定は危機に弱い。すべて他責構造をしているからだ。ミスチルはそんな日本社会を痛烈に批判する歌詞を書く。それに気が付けるのは多感なやわらかな心を持っている子供だからなのか。ミスチルは10代の若い世代にこそ「読んで」ほしい、そう思う。
ミスチルは「聴く」ものではない、「読む」ものである。
オトナこそ哲学
座席争いこそ人生と思わされ続けてはや数十年。先生も親も、いい座席に座ることが幸せよ、というメッセージを送り続ける。オトナの心はカチカチである。それでも年老いた親だから、とせっせと休日に顔を見に行く。だって親孝行は大切だから。オトナの心は硬いままである。
そんなオトナでも歌でなら理解してもらえるかもしれない。そんな思いがこの本には込められているような気がする。もちろん、そんな上から目線は感じないようになっている。気が付くとオトナも哲学。そんな感じである。
勝ち組・負け組図式、その発展度合いが幸せの証?
京都精華大学の学長に初のアフリカ出身の方がなったということで、その方の本を読んでみた。その中の一コマ。日本の学生が言ったそう。「ネパールの人々の識字率は低い。それを上げてあげたいんです。私は世界に貢献したい。」と。これに対して著者のサコ学長は、「なんでやねん!」と叫ぶのである。識字率イコール幸せちゃうやろ、と。教育は幸せのためにある。日本人は大丈夫か?と。アフリカには何とかして自分の子供が学校に通えないようにしようと努力する親が多いという。私は、そこに、家の仕事が忙しく働き手を取られたらたまらないから、というステレオタイプのイメージを持っていた。しかし、実態は違うらしい。サコ学長の出身国マリでの話だが、学校に行くこと=幸せ、だと思っていない親が多いと。座席争いに大事な子供を巻き込ませたくない、のだと。アフリカの人々の心は私たちより豊かだ。わたしは涙が出そうになった。
もっと哲学
お金はあるけど哲学のない国ニッポン。お金はないけど哲学のある国マリ(アフリカ)。私たちはいかにステレオアイプの言説に慣れているのか。「世界中の貧しい子供たちがフツーに学校に通える世の中を提供したい」こうした言説がいかに傲慢なものか、思い知らされた。
日本の惨状に一縷の望みを。「ミスチルで哲学」という本の表紙を眺めながら考えた。中身は読んでいない。表紙を見ながら中身を想像すること。そして、出来れば自分で中身を書いてしまうこと。
今の日本人に足りないことをしよう。
正解を探すのではない。自分の心と体で答えをひねり出せ。
息子が、偏差値よりも大切なことに気が付きますように。