建設省の統計書き換えモンダイ
問題の根はそんなところにあるのだろうか
建設業者の毎月の受注状況の数字が不適切だったとして建設省が糾弾されている。日経新聞もこうした「国」の惨状を嘆くコラムを掲載した。12月16日付けの朝刊である。また、いつもの光景が繰り返されている。もういい加減にした方がいい。
官僚の不祥事を得意気に叩くマスコミ。これでは問題の根が覆い隠されたままである。そのニュースを真に受けた国民が、ますます愚かになるじゃないか。
そもそも「国」って自分そのものじゃないの?
今回の統計データに対する意識の低さはたしかに官僚の体たらくである。でも、こんなこと会社では日常茶飯事である。統計データの意味すら分からないのがフツーの光景。私たちの会社は年商規模100億に届かないほどだから、零細企業というには大きすぎる。中堅中小企業のカテゴリーだろう。ということは、一般的な日本の企業の姿のはずである。日本にある数百万社の中央値。決して特殊なケースではあるまい。日経の記事には、建設省の役人のコメントとして「理解が足りず実態をうまく把握できていなかった、と釈明した」とある。これも経営の現場でよく社員から言われるセリフである。要は、把握するつもりがないのである。風に吹かれる葦の如く、流されるままに過ごす被害者。指示がなければ何もできない。時間割が決まっていないと課題を自分で設定することができない。物象化の成れの果て。価値観そのものがないのである。
これがニッポン、そのニッポンが自分の体内にも入っている・・・
それがニッポンというものの正体であろう。建設省だけの話ではない。それを脇に置いて官僚の不祥事を責め立てて記事にしているマスコミのクズぶりが際立つ。でも、このマスコミのクズぶりも、私自身のことだと思うと気分が滅入る。ディス・イズ・ニッポンは私の体内にも流れている・・・
「自分の意識」と「自分の身体」を分けて考える、という作法は16世紀、フランスの哲学者で宗教家、しかも数学の仕事も残したといわれるルネ・デカルトが始まりとされる。「われ思う、ゆえにわれあり」と言った人だ。これが近代を立ち上げた。私たちを支配する二元論的な発想の濫觴だ。それはその通りなのだが、そこには日本人がいつも見逃すポイントが隠れている。それが主権者であるわたしたち一人ひとりの「意思・自律性」である。「君はどう思うのか?」これにいつも応えられる用意がないと近代社会は成り立たない。日経はそこをこそ批判すべきである。そうすればその批判は即、自分に返ってくる。フェアであろう。
統計データに対する認識が浅かった・・・この人は、そもそも近代人ではないのである。伝統主義を重視する古代・中世のモデルである。宗教なき「鉄の檻」の完成。ウェーバーの予言通りである。しかし、それは日本全体、すべての日本人に共通する問題なのである。
結局、日常活動のひとつひとつの「場」を変えるしかない
じゃあ、どうしろというのだろう。経営の現場が、日本そのものだとして、結局、経営者はどうすればいいのか。ここに決定的な矛盾が存在する。「自律性を他者が言わなければならない状況」、社員の自主性を経営者が言わなければならない状況・・・、自律性とは他者から言われなくとも自分の内面のエネルギーが駆動させることをいう。他者に強制されなければ動かない、上司が指示しなければ仕事ができない、それはまさに「カギのかかった箱の中にあるカギ」問題である。これが今の日本の最大の問題なのである。
日本人はすぐに正解を教えてもらおうとする
そもそも近代社会とは正解のない社会のこと。すべてが仮説検証で成り立っている。神なき社会の建設。それが近代の鉄則である。ということはつまり、正解を他者に教えてもらいたい、というそのマインドそのものが近代的ではない、ということ。日本の学校はすでに賞味期限が切れて久しい。いつまで社会不適合者を生産し続ければ気が済むのか、とも思うが、嘆いていても仕方ない。もう一度小学生・中学生をやり直すのも現実的ではない。「今ココ」をなんとかするしかない。
松下幸之助が生前、よく言っていたそうだ。余裕のある経営がしたいという場合、どうすればいいか?という質問に、それは余裕のある経営がしたいと思うことだ、と。これが近代の核心である。そう。「思うこと」、これが近代社会を成り立たせる。自分自身を近代人に仕立て、物象化の激流に立ち向かわせてくれる。合っているかどうか、などその次の問題である。まずは「思うこと」。思った後にどうすれば達成できるかを考える。まさに戦略思考である。
実はみんなやっている
先日も、「目標の立て方がわからない」という文脈に解消されてしまう場面が社内であった。「自分の意思はある。スキルがないだけ。」そういう主張である。なんと浅ましい光景か・・・
目標を立てるのに他チームのやり方を参考にしようというのである。でも、意思なき所に、他者活用は走らない。そもそもやらされているだけの意識の中に近代は成立しないのである。
でも、そうした仕事の現場で意思なき振る舞いをする社員も、実は、別の場面では明確な意思を持って過ごしている。特に母親になっている人はそうだ。自分の子供が最優先。他のことはそこを軸にすべて考える。間違っているかどうかなど、その時、考えてはいない。他者の意見も「思う自分」を整えるため。住む場所も、一日の時間配分も、それこそ上司の言うことなど絶対に聞かないではないか。これぞ、近代人のモデルである。
自分と世界は「地続き」と考えること
論理思考とか、仮説検証とか、自律性とか他者性とか・・・会社の現場で言われる様々なこと。それは頭で理解することではないのである。自律性など2秒で見に付く。要は、身に着けようと思うかどうか。それだけなのである。
デカルトの発想は、その分けては考えられない真理を、分けて考えたらどうか?と便宜的に提案したものでしかない。そこには個人の意思が暗に前提される。ゆえに欧米の社会教育の現場では「あなたの意見」がもっとも重視される必然が起こる。日本とは真逆の教育観がフツーに走る。
民主主義の国家は私たち一人ひとりの「意思」が支える。それは、日常の「場」の意思でしかないのである。それは「綺麗」でも「汚い」でもない、「強い」か「弱い」かをむしろ問うべきシロモノである。
まずは強く思うこと。全員に否決されたとしても「そうすることに決めたのだ」と強く思うこと。それこそが近代人である。
そこからしか近代社会は走らない。
ニッポンの問題を解決することは出来ないのである。
誰かの意思ではない。
私の意志。俺の意思。
それが近代社会のメカニズムの核心である。