バカの壁

バカの壁

タイトルの「バカの壁」はもちろん、養老孟子さんのベストセラーの本の題名である。今回、書きたいことを書こうとした時、なぜか、養老孟子さんのこの本の題名が頭に浮かんだ。おそらく、養老さんの本を読む前に想像していたのは、これから私が書こうとしていたような内容だったから。

私が言いたいことを「バカの壁」と言ってしまうとちょっとミスリード、もしくは、イメージが悪くなるかもしれない、とも思う。でも、思いきって使ってみることにした。私が言いたいのはこうだ。バカの壁=学習を阻害している内面のストッパー。20年の経営の経験の中で、私自身、この「学習を阻害する壁」を感じてきた。

私は創業前の5年間、約500冊の本を読破した。創業後は年間で読む本は10分の一に減った。しかし、学習の効果は、創業後の方が10倍高かったと思う。その謎を分析したいと思う。自分自身が経験してきた「バカの壁」の突破方法である。私は学生さんとよく面接をする。そして、よく、どんな本を読めばいいですか?紹介してください、ということを言われる。でも、ひとに紹介してもらった本などたいして役に立たないのである。それを伝えたかった。うまく理解してもらえるかわからないが最後まで読んでもらえたら嬉しい。

就活中の学生さんにも読んでもらいたい。

 

学習のタイミング:ひとが成長する瞬間(とき)

書きながら思い浮かべているのは、普段、経営の現場で接する社員一人ひとりの表情やことばである。私は、社員一人ひとりの「学習」こそが、カイシャという組織の社会的使命発現のキモであると考えているからこそ、異常なほどにその「現場」にこだわってしまう。周りから見るとちょっとやりすぎじゃないか、と見えるかもしれないが、創業経営者に出来ることなどこれ(社員育成)くらいしかないのである。自分が現場にしゃしゃり出たところですべてをひとりでこなせるような仕事量ではもはやないし、それよりもなによりも、社員自身が甘えの気持ち(一般には能力不足と解されている。しかし、次第に明らかにしていくがこれは社員自身の勘違いである=まさにバカの壁)から、それ(自身で課題設定することをあきらめ他者に委ねてしまうこと)を無意識に望んでいるのを痛いほど知っているから。学習(成長)のためには、社員一人ひとりに、たとえそれが苦しくとも自分でその「バカの壁」を突破してもらうしかないのである。だから私は今日もギリギリまでプレッシャーをかける(ほとんどが根気強く待つ)しかないのである。

学習(ひっくり返すと「成長」ということになろうか)とは、「ある瞬間」の内面の出来事である。そのひとの「存在形式=ものの見方・考え方」の刷新である。決して知識を覚えることそのものではない。ビジネス書を読んで「ことば」や「概念」を覚えても、決して学習(成長)をしたことにはならないのである。海外の有名校でMBA(経営学修士)を取得した自称「優秀な人材」が起業してすぐに行き詰まる例が後を絶たないのは、「学習」というメカニズムを勘違いしているからである。「学習」とは「知識の吸収=文字の解釈」ではない。「文字の解釈」はむしろ「学習」の「結果」であって「目的」ではない。西洋二元論的な思考習慣が私たちをミスリードしているのだろうが、何か、自分の内面とは切り離された、そこにある「知識=意味」を我慢して飲み込むことが「成長(学習)」することと勘違いしている人が多すぎるのではないか?外国帰りのMBAがその虚栄心から派手に振る舞っており、それを見た、これまた虚栄心ゆえに不安を煽られる海外留学とは縁のない「フツーの」社員たちがミスリードされるという構図が繰り返さている。そこには何の本質も見いだせない。むなしい需要と供給の一致があるだけである。

「学習(=成長)」とは、脳みそだけの問題ではなく、心と身体「ぜんぶ」で行うものである。だから、学習(成長)のその瞬間、ひとは感動を覚える。「あっ、なるほど!」という「わかった!」を必ず伴い震えが来る。そして、深い深い「学習」であれば、そこには必ずといっていいほど「生みの苦しみ」をも伴うものである。

「学習」とはある意味「自己否定」である。自分が一番大切にしている心のよりどころ(信念といっていい)を自分自身で否定し書き換えることである。人間は、それを意識しようとしまいと、いつも目的合理的に振る舞っている。そこには必ず目的がある。その目的を他者を経由した大きな図柄に書き換えてあげること。自分を満足させるのは、他者(社会全体のメカニズム)を満足させた結果と考えることである。

それはまた、自分が持つ、生まれながらの七癖(ナナクセ)を変えることではない。ナナクセは意識し利用する。そこはスポーツと同じで、体格や柔軟性などトレーニングでは変えられない要素は自覚して利用する。しかし、付いてしまった変なクセは何としても矯正して、そのスポーツに備わる成果のあがるメカニズムにはめ込むしかない。そこは繰り返し繰り返し、なんどもなんども出来るまで練習する・・・

 

学習を阻害している内面のストッパー

仕事の成果の7割は課題設定で決まってしまう。その後の作業は成果の3割にしか影響しない。まじめに仕事をこなすことは、成果にほとんど影響しない。だとするならば、鍛えるべきはこの「課題設定力」である。「課題設定力」は問いを持ち続けることで身に付く。すなわち、

 

・自分が置かれたこの「場」はどんな意味を持つのか?

・私たち(この事業・仕事)はどこからきてどこに向かおうとしているのか?

・そもそもこの仕事の意味・目的はなにか?

・そもそも今、自分はなにをしようとしているのか?

・自分は何問題を解こうとしているのか?

・やりたいことではなく、すべきことを考えているか?

 

正しい問いに答えることは、間違った問いに答えようとしないということでもある。間違った問いに反射的に反応してしまう社員が多すぎる。そういう社員の特徴的な心の習慣を列挙すると・・・

 

・上司からの指示を素直に聞こうとする姿勢(疑うことがない)

・無意識に褒められることを目的に据えている=自律していない=作為の契機の不在

・シラバス(カリキュラム)を求める姿勢が強い

・会社は学校ではないことが自覚されていない(授業料は会社が社員に払っている)

・読んだら成長できる本が存在していると思っている

・バカだと思われることを極端に恐れている

・わかりたいと思う前に、わからなかったらどうしようと思ってしまう

・学習は向き不向きの問題だと思っている

・基本、自分のせいだとは思っていない

・「今、この場」に執着できない、メモして後で理解しようとする

・全部と全体を混同している

・全体、すなわち、意味の世界は底なしで無限に言い表せることを知らない

 

学習のコツは数が少ないが、阻害する要因は列挙すればきりがないほどに多くある。経営の現場に20年も携わっていると、記憶にあるだけでもまだまだ挙げることができる。もうひとつだけ決定的な学習の阻害ストッパーを挙げると

3年やそこらですぐに自分には無理だと諦める

というのがある。辞めていく社員の特徴はいつも同じなのである。そして、「ここではないどこかに自分にふさわしい場所がきっとあるはず」、と続く。

 

ストッパーの正体:突破する方法、わたしの場合

学習の効果を阻害しているのは自分自身である。自分が自分にあてがっている自分自身に対する定義づけである。私も起業してすぐにこの壁にぶつかったことがある。なかなか現実を突破できなかったとき(その数はかぞえきれない)、「自分は経営には向いていないのではないか」そう思った。しかし、すぐにそのおかしさに気が付いた。向き不向きなど誰にも決められないではないか。いわんや自分自身おや。実際、そんなこと思っている暇はなかった。目の前の壁を「今」突破しなければならなかった。そして、目の前の課題を解決することを心に決めた。

だから、ひとり部屋に閉じこもりホワイトボードに向かって思考を整理していった。何日も何日も、自分の置かれた状況を整理し、突破口を探していった。毎月の支払いという期限が常に迫る中、「今」答えを出さなければならない、そう頭の中を占領させ「強引に」新しいことばを絞り出していった。その作業をひたすら繰り返す。

もちろん本も活用した。しかし、そんな時、本は端から読むような真似はしない。白版を前に、思考を集中する中で、「こんなこと考えていた人はいないのか?」そんな思いに適切な表現を与えてくれそうな書籍を手当たり次第にめくる感じ。題名を見て、目次を見て、「ここに俺が欲しい答えが書かれているやもしれぬ」そんなワラをもすがるような感覚でページを開いていく。「うーん、違うな、問題意識が俺とは違う」そして、また、自分の頭でひねり出そうとする・・・白版になんどもなんども書き殴る・・・そうして新たな概念を作り出していった。今のビジネスモデルやミッション・ビジョン・戦略なども、そんな作業を通じて生み出していったものだ。そうこうしているうちに現実が好転しだしていった、そんな感覚である。

本の通読は、その後に確認するためにしている感じ。独りよがりの可能性が否定できない以上、社会一般で言われている知識はこんなときに役に立つ。そんな時はロングセラー(できれば古典)を読んだ。長いこと人々の目に晒されて評価に耐えて残っている書籍はそこに価値がある。ベストセラーはたいがいロングセラーの焼き直しであることに気が付いたのもこうした作業の中である。

 

3年も5年も10年も、そして、結局20年経った今でも続けている。なにか釈然としない感触が自分の内面に存在する時、私は必ずこうして自分を孤独に追い込む。そして、なんとなく気が付いてきた。「学習(=成長)」の正体はこれなのではないか?俺が今やっているのは、学校で先生から教えてもらおうという態度ではないではないか。先生の存在など気にしてないではないか。そもそも俺には上司がいない。それが幸いしている可能性があるのではないか。いい考えが浮かんだ時、そして、現実を確かに突破した時、そんな時、俺はひとに教えてもらおうなどとは思っていなかった。それよりもなによりも、孤独になることをこそ好んだ。ひとり真っ白なキャンバス(白版やノート)に向かい、記憶をたぐり寄せることをこそ好んだ。そうして突破してきたではないか。考えて見れば、苦しい時こそ本は読まなかった。人には聞かなかった。ただただ、ひとり自分の思考を追い込んでいった・・・

 

バカの壁は「苦しみから逃避したい」という気持ち

振り返ってみよう。「バカの壁」、すなわち、学習を押しとどめるモノの正体はなにか。それは結局は自分自身でその壁を突破しようとする気合を緩めてしまう「言い訳」なのではないか。「理屈とハナクソはどこにでもつく」とは誰が言ったのかわからないが、そうして自分自身の内面の気合を脇に逸らし、気持ちを緩めてしまうことこそが自分が成長出来ない一番の原因なのではないか。逃げてはいけない。動きすぎてはいけないのである。じっとその場に留まり、気持ちを一点に集中させ、壁の向こうを心配せずに突き抜くのみ。邪念を捨て、絶対に出来るはずだと根拠なく自分を信じるのみ。

わたしも「自分は経営者には向いていないのではないか」と思うこともあった。今でも頭をよぎることがある。しかし、今はそれが無駄な思考であることを知っている。そんなこと考えたってなにも起こらない。それそのものが頭と心(時間といってもいい)という資源の無駄遣いである。常に今置かれた位置から前を向くのみ。人生はそんなに長くはないのである。50歳を超えてそう思うようになった。

 

有効な使える理論は感情がベースになっていると思う

「学習」とは知識を吸収することではない。それは結果である。目の前の難問を突破しようと全身全霊で意識を集中するなかで、あるとき、「わかった!」という瞬間が訪れるときがある。それを後で振り返った時、その人には「知識」という概念が備わっている・・・それを成長というのではないか?本を端から読んではいけない。誰かに教わろうとしてはいけない。そうではなく、「学習」の原理原則は独学にこそある。自分のあたまでウンウン唸って突破すること。真っ白なキャンバスを前に、記憶を手繰り寄せて自分だけで答えを導き出そうとすること。それこそが「学習(成長)」という不思議が訪れる瞬間であり、それでしか、その瞬間に出会うことは出来ない。そこにあるかのように感じてしまう「知識」は、自分の弱い心がそれを現象させてしまっていることに気が付きたいものである。

 

「バカの壁」=「学習を阻害する要因」は、自分のそうした逃げたいという内面が作り出している幻想でしかない。ひとは環境の動物、という言い方があるけれども、その環境の大きな部分は、自分自身の内面の構造が占めていることを自覚したいものである。世界は自分の外側に客観的に存在するのではないだろう。世界は結局は自分の主観が作り出したものでしかない。そこにあると思ってしまう知識も、実のところ、それを解釈している自分の主観の織り成すことばの絡み合いでしかない。ひとは無意識に世界を自分の都合のいいように解釈している。それにちょっと離れたところから眺めてみて気が付けるかどうか。どうやら「バカの壁」は、そんな自身の感情や世界観を生み出す、その「元の元」にこそあるようだ。

 

自分の存在も、自分の感情も、そして、自分が意思と思っているそれも、宇宙の歴史を考えれば何かに作られたもの、そう思わされているのでしかない、そんな感受性を同時に持つことが重要なのかもしれない。意思は能動でもあり、受動でもある。そうした感受性。「思うこと」と「思わされること」の一致する場所に「バカの壁」は鎮座する。「バカの壁」は、そうした現代の私たちの言語をこえた位置に鎮座する不思議なのだろう。

 

論理では届かない。おそらくは「考える」のではなく「感じる」しかない「バカの壁」。ぜひとも捉えたいものである。

 

だからこそ、学習には感情が必要不可欠である。カリキュラムをこなしていくような「浅ましい」損得勘定をこそ捨て去るべきである。

仕事は感情的にやってこそ、である。理性は感情の羅針盤ではあっても、動力源ではない。やはりベースには「ありたい自分=すなわち、見てみたい世界像」を追い求める気持ちが必要である。「カッコいい自分になりたい」、それでいいのである。それが、いいのである。

 

思いを新たにすると。仕事に単純に興味を抱くこと。好きになること。そんな結論すら出てくる「バカの壁」議論。

 

少年(少女)よ!(おじさん・おばさんよ!)大志を抱け!

 

みなさんはどう思っただろうか。