組織をひとつにする人生の謎

組織をひとつにする人生の謎

ミッションステートメントの明文化は終わりの始まり

「あなたの会社の経営理念は何ですか?」と初対面で聞く人に出会うことがある。私のような立場だとそういうことがたまに起こる。「経営理念を定めよ」「ミッションステートメントを明文化せよ」とMBAの教科書に書かれているからなのか、何の疑問もなくそれを受け入れている。でもこれは、人間として「終わっている」または、「終わりの始まり」現象である。“いけ好かない”は、終わり始めている男のことを指す(もちろん女でもいい)。でも、近代を生きる我々は、実はみな「終わり始めている」のである。その象徴がミッションステートメントの明文化だと思う。

 

一番大事なことは空欄にする

『会社にとって一番大事なことは言葉にしないで空欄にしておくこと』

これは私たちが定めた原則である。私たちもかつてミッションステートメントを言語化しようともがいた時期があった。しかし、成果はなかった。日本の一流企業と目される上場会社がみな「経営理念」なるコトバをホームページに掲げているので私たちもそれに習おうと考えたわけだが、いつしかその違和感の正体に気が付いた。私たちが悪いわけではない。上場企業が変なのだ。

ユダヤ教やイスラム教などの一神教が、偶像崇拝を堅く禁じ最大の罪としている理由を理解すればそれは腹落ちすることだった。仏教思想の「空」の原理や諸行無常・諸法無我・縁起の思想体系を理解すれば、上場企業の“変さ”に対する違和感もよくわかるものだった。われわれは自分の内面に従う。

 

明文化とは思考停止を促す偶像崇拝である

明文化とは偶像崇拝である。あるひとつの言葉を意味も考えず拝む輩を生む。そこに内省はない。つまり明文化(=偶像崇拝)は内省停止を生む。内省停止は最大の悪である。内省停止は本人にとっても、組織にとっても、いいことはひとつもない。心は荒み、組織はAI化する。起業家精神も枯渇する。あとに残るのは経営トップによる強権政治のみである。それ以外に業績を維持する方法・選択肢は消える。

 

近代社会は内省停止を生むシステム

しかし、われわれが棲む近代は内省停止を促すシステムである。宗教文化が残っている地域はまだいい。しかし、日本人は宗教的伝統を顧みることなく無邪気に近代を受け入れた。朝日や夕日、富士山を拝む習慣は日本にも確かにあった。夕日の美しさに感動する心が我々日本人の信仰心の原理であったのに、今やそれさえも捨て去ろうとしている。1964年の東京オリンピックを境にヒーローが西郷から竜馬にかわったことはそれを象徴するデータである。再びオリンピックを招致したいという心にも、近代化という巨大システムを賛美するメカニズムの欠片が潜む。

いや無邪気にそうしたのではないのかもしれない。西洋の支配から逃れるために、仕方なくグローバルシステムを受け入れた。それが今やベタで信じるようになってしまった。近代こそ素晴らしいと。近代の象徴アメリカに無邪気に憧れる心、イコール偶像崇拝であることも知らずに、自らの座席争いのためにそれを推し進める高級官僚に、今こそシュプレヒコールを上げるときかもしれない。

 

真ん中の空欄は感じるもの

そもそもいい会社・いい組織とは感じるもので、考えるものではない。信仰心も感じるもので、考えて理解するものではない。情操教育の必要性が叫ばれている背景にはこの原理がある。人間は論理で考えるその基底に、感じる心がなければならない。論理だけでは思考は完成しない。パラドクスは埋まらないのである。どうしても心の奥底の、言葉にできない感じる「フィールド」が必要である。そうしないと他者との共感はない。歓喜や感動も基本、「フィールド」の共振であって、理性による「理解」ではないのである。

偶像崇拝は、他者へ恋する心をもすりつぶしてしまう。生活の保障を恋心と思い込もうとしても所詮それは近代的計算である。そんなこと自分が一番よくわかっている。でも近代の奴隷と化した心にはほかにすべがない。しかし、やはりそれは恋ではない。恋は規範意識をやすやすと超える。時にそれを勇気という。社会秩序は恋ではない。だから、いい会社は危うさを同時に孕む。でも社会は、いいとこ取りを禁じる原理で動く。いい会社には、うっすらとした危うい恋の空気が流れるものである

データを蓄積しビッグデータ分析をすれば何でもわかると思い込むのが愚かだということは誰にでもわかるが、その実、会社はビッグデータに流れざるを得ない。近代に取り込まれてしまった人間には、組織の「空欄」を追いかける動機がそもそも存在しない。その意味するところも感じることができないだろう。感じられないからと一生懸命に考えようとしても出口はない。本を読んでもそれはわからない。それは理解するものではなく、感じるものである。

 

「空欄」というメカニズムがエネルギーを呼び覚ます

人間は本来、自分の人生の謎を追いかけたいものである。幼い子供こそ人生の深い謎を口にする。大人がそれを封じ込めなければ、子供はみな哲学者である。宇宙の謎に魅了される。生命の神秘に心震える。どれも正解があるようなシロモノではない。それがいつしか「大人」になるためにみずみずしい心を封印する。それが近代の奴隷への道だと教えてくれる人は学校にもどこにもいない。でも、人間の生きるエネルギーは、その「謎」を追いかけるからこそ無限に湧き出てくるのである。内面から湧き上がる枯渇しないエネルギー。「謎」が無限性を担保する。

組織は結局、そこにいる社員一人一人のやる気の集合である。事の初めの最初の枠組みこそ経営トップが描くかもしれないが、そこに命を吹き込み、構想を膨らませるのは、現にそこにいる社員である。正解を求める心はエネルギーを略奪する。明文化された理念やミッションは、システマティックにそのエネルギーを略奪する。

『一番大事なことは言葉にしないで空欄にしておく』

近代日本に生きる会社組織の原則だと思う。