企画職のコツ②_大きなことと、小さなことと

企画職のコツ②_大きなことと、小さなことと

わたしの新卒時代の3年間

新卒で通販の会社に入社し、始めて企画(商品企画)というものに触れた。その会社がちょうど急成長期にあたっていたためか、教えてくれる人もおらず一人でなんとかするしか方法がないような状態だった。最初の1か月は、黙って外線電話を取っていろと一言。理不尽さに頭にきてすぐに上司に辞めたいといったのを覚えている。とても生意気な新入社員だった。

ものの見方・考え方、企画の頭の使い方などほとんど教えてくれない。会社の中で言われていたのは「仮説検証・事例研究・他者活用・体験経験・知的理解」という呪文だけ。あとはセントラル・バリューなる社長の考え方の冊子が配られただけだった。最初の1年は別に読み合わせがあるわけでもなく、ひとりで読み込むだけだった。それでも新卒2年目からは、自分の次の代の世話役に指名され、勉強会のようなミーティングを増やすように上司に掛け合い、徐々に学びの場を確保していった。

わたしが自分自身で企画のコツが掴めてきたな、と感じることになるのは3年目に入ろうとしていたころだったと思う。それまではただの甘えたクソガキで、社会の仕組みを知ろうともしていなかったと思う。勉強は人一倍していた。でも、ずれていた。本や経済新聞などをよく読んだが、今から考えると大きくずれていたと思う。現場の仕事をないがしろにする不良社員と言われても仕方ないような最初の2年間だったと思う。

きっかけは「数字も上げられないで偉そうなことばかり言うなよ」という同期の一言だった。その時はムッとしたが、今では感謝している。その一言がなかったら、創業という決断もできなかったかもしれない。それからはただ、数字を上げることだけに集中した。一時、本も何もかも読まず、朝から晩まで商品企画のことを考えた。

 

はじめての浜松出張_取引先の人がすごく大人に見えた

最初の2年間、商品企画は手探りだった。でも、やる気だけはあったので、とにかく経験を積みたくて出張ばかり申請していた。初めて行ったのは確か浜松だった。繊維工場が集積する地域である。名刺の出し方も知らない。商談などどうやっていいかもわからない。工場など小学校の社会科見学以来である。それでも社則を無視して一人で赴いた。緊張で行きの新幹線は上の空だったと思う。

取引先の担当者はベテランぞろい。とりあえず席について「今日は何しにいらしたのですか?」と先方の役員。会社が急成長の只中にあったせいか、好待遇である。私は「何しに来たの?って商品見に来たに決まってんだろ」。ことばを飲み込み「とりあえず工場が見たいです」というのが精いっぱいだった。お茶をすすり席を立つ。気に入っていた自分のバッグをお守りのように握りしめ、怯えた子羊のように後に続く。

いくつかのカーテン工場を見せてもらった記憶がある。しかし、何も覚えていない。道すがら「今日のNHKニュース見ましたか?」と来た。見ているわけがない。こっちは遅刻しないように定刻の新幹線に乗ることだけで精一杯なのである。なんとかごまかしたが先方は話を続けている。取引先の担当者がやたらと大人に見えた。苦々しくも、今となっては愉快な思い出である。

商談の結果の商品は売れるはずもなく、私の数字は当初、地を這うような結果だった。担当したすべてのページが下からランクイン。部署で最下位を独走していた。

 

商談での一番の失態_わからないくせに格好つけてしまった

入社した会社の支払いは手形。しかも末締め翌20日起算の120日という超ロングなシロモノ。初めて取引に来た会社は、たいがい一度ドン引く。それでも上司から言われているので告げるしかない。

手形など学生時代には聞いたこともなかった。その仕組みなどちんぷんかんぷん。それでも商談はしなければならない。私は思わず格好つけてしまった。「120日手形ですが、うちは信用が高いので結構いい利率で割り引けますよ」。先方の役員の顔が凍り付く。それ以来、その方は一度も来てくれなかった。今から考えると顔から火が出るくらいに恥ずかしい。手形の何たるか、割引のなんたるか、会社の資金繰りの何たるかもわからずに、ただ、覚えたての知識をひけらかしたかっただけである。こんな失礼なこと、今逆に言われたら相手を殺すかもしれない。自分の馬鹿さ加減が恨めしい。相手はその会社の役員である。とても冷静だった。本当に失礼しました。おかげでそれ以来、格好つけることを戒めている。そんな機会を頂戴して感謝しております・・・

 

先輩に教えてもらったこと_小さな約束を守ること

それでも何とか仕事をやり過ごしていたころ、隣の部署の先輩社員に聞いたことがある。「取引先から信頼されるにはどうすればいいですか?」その先輩は親切に教えてくれた。「それは小さな約束を守ることだよ」。「なるほど!」私はそれからというもの、絶対に約束を守るようになった。手帳にも必ず「やることリスト」を作成し毎朝見返した。次第に取引先は自分を向いてくれるようになった(気がする)。

この時悟った。企画職とは仮説検証なる概念的な大きな構想と、サンプルの送付や時間を守ることなど小さく見えることの両方ともが重要なんだな、と。一見、大きな概念的なことの方が重要に感じられるが、そこは生身の人間どうしの関係。きっちり約束を守る人を悪く思うわけはない。それからというもの、電話での話し方、メールの文言など、私は細かなところにも注意を払うようになったのを思い出す。手帳の使い方なども、整理されるようになっていった。

 

国内出張_接待される側という立場

出張先では昼食や夕食の時間帯に食事の席を囲むことが多い。こちらはバイヤーであるから安い店には連れて行かない。それなりのちゃんとした店ばかりである。学生時代には口にしたことがないような美味しい料理をごちそうになった。てっちりを初めて食べた。カニ味噌がこんなにうまいモノなのを初体験した。大阪のお好み焼き・たこ焼き、手打ちそば、熊本のウナギなどなど、大変お世話になりました。

でも、今から考えると当然だが、その会社にも倫理規定なるものがあった。食事をごちそうになるのは基本、ご法度。誘われたら一度電話で上司に相談しなければならない。買う立場の職業がどれほど力を持つものなのか、その当時はほとんど自覚していなかったと思う。倫理規定に救われた。

買う側に比べ、売る側は、基本的に小さな会社が多い。業者と一般的に言われるように、小売りの会社の市場を求めて日参するのである。こちらが発注する額が大したことないと思っていても、規模の小さな会社にとっては大金である。毎月、いくらの発注をもらえるかで食事のランクも決めているのである。食事はあくまで営業のいっかん。私が偉くなったわけではないのである。当時の私は本当の意味では気が付いていなかったと思う。結局、5年目でその会社を辞め、自分で創業してから思い知らされることに。自分は会社の看板を背負っていたんだな、と。相手が見ていたのは自分ではない、自分が所属する会社だったのだと。

 

海外出張_マレーシア家具見本市

初の海外出張は2年目だったと思う。マレーシアの国際家具見本市。取引先の社長さん、担当者さんたちと行かせてもらった。交際線の飛行機も何度かしか乗ったことはない。仕事ではもちろん初めてである。緊張してあまりことばが出なかったのを思い出す。

クアラルンプールに到着し翌日、見本市会場へ。取引先のベテラン担当者が付き添ってくれながら、足が棒になるほどに歩き回った。資料をさんざんもらった。バッグの中は資料だらけになった。その後、昼休憩でランチをしながら資料に目を通す。気になったブースを再度訪問である。それでソファのサンプルやら木製家具のサンプルやらを日本に送ってもらうことにして帰国の途についた。

帰ってきてびっくりである。サンプルを国内に送るだけで80万円ほどが請求されてきた。ベンダーは払ってくれないと困るという。こんなお金どうやって上司に申し開きすればいいのか。上司も稟議を書きたくなくて渋い顔。その時、私は初めていろいろなところにお金ってかかっているんだなぁ、と意識した。会社に勤めていると気が付かない。でも、会社員は確かに守られている。創業していろいろなお金の計算をしながら、こうしたお金が半端なく経営を苦しめることを実感することに。当時の私はなんと無知だったのか。

 

論理的な仮説を持てるようになって・・・『企業参謀』との出会い

同期に言われた一言がきっかけで、私は本気で数字を上げることに集中し始めた。2年目も終わりに近づいていたと思う。どうしたら数字は上げられるのか。必死で考える日々が続く。

それまでも仕事は一生懸命にやっていたのである。しかし、ピントがずれていた。会社数字のメカニズムを理解しようとはしていなかったというべきか。

必至で考えると見えてきたものがあった。「要は数字を上げればいいんだろ?売上を上げればいいんだろ?ならば、売上の力学を考えればいいんだ。」私は当時、このように考えていたと思う。それで昼間は机にかじりつき売れる法則を考える。夜は夜で、手に取った『企業参謀』なる本を眺めて考えた。「仮説検証」とかいうけれど、それって何なんだ?事例研究?マネするってことか?他者活用などするわけがない。自分は自分で考えるつもりだ・・・私はまだ社会の厳しさを知らない。

それでも自分なりの法則を編み出して数字は一気に上がっていった。それまでの企画が嘘のよう。本気になればできるではないか。最初の2年が嘘のように仕事が一気にシンプルに見えるようになった。私が編み出したのは「老若男女」に売れるようにするということ。「3C」や「抽象化思考」などは本で学んだ。「坪効率×リスト数」は取引先の何気ない一言を逃さなかった。この時学んだ、売るためのいくつかの概念装置は今でも使っている。やはり仕事は集中しなければならない。集中していない時の経験など、その後、何の役にも立たないことを知る。

こうすれば売れるはず、という仮説の威力はすさまじいものがあった。外れることもあったけれど、それでも極端な話し、構わないのである。市場に投入するその前に、深く深く考え抜いた効果はその後の仕事の効率を各段に挙げることになる。一方で前任者をはるかに超える数字を上げながら、仕事量は何分の一かに減らしていった。仕事ってこうやってやるのか、そう思ったのを覚えている。その時の感覚は今でも経営の感覚に生かされている。

 

大きいことと、小さいことと

結局、私は新卒で入社させてもらった会社に5年間在籍した。そして、今の会社を創業した。経営者と、一企画担当者の仕事は異なるが、売上を上げるメカニズムを肌で実感するという経験はかけがえのないものとして私の中に残ることになる。経営をやりながら、仮説検証なり事例研究なりは、もっと大きな図式の中で磨かれていくことになるが、その核となる理解は消えようがない。

一方、数々の取引先や先輩社員の方々から教えていただいたことも、今の自分を支える肥やしとなっている。小さな約束を守ること。時間を守ること。格好つけずに自分を正直に晒すこと・・・社会で仕事をしていくうえでは信頼関係のベースを構成するものばかりである。

 

概念的な大きな構想を必要とする仮説検証も、約束を守るという日常のこまごました小さなことも、企画職にとってはどちらも同じくらい重要である。もし、今の新人に、どちらが大切ですか、と聞かれれば、今は両方大事としか言えない、と答えることだろう。

 

大きなことと、小さなことと。

企画職のコツを考える上で、天秤のバランスのような関係なのかもしれない。そんなことを考えた。