近代の元気は、「仮説」がつくる

近代の元気は、「仮説」がつくる

「意識」という名の「箱の中」

わたしたちの些細な日常の意識は、常にすでに、マトリョーシカ的に世界と歴史の物語りをまとって現象しつづけている。それは記憶からの呼びかけというカタチでおとずれるかもしれない。昨日見たテレビやネットのニュースがきっかけかもしれない。たまたま隣り合わせた見知らぬ人の振る舞いがきっかけになったかもしれない。意識は世界を伴い途切れることなく現象し続けている。意識は意識でコントロールできない。

意識が、人間と世界の正体である。人間存在=世界の存在=現象する意識。れを前提に空気の不思議を考える。

意識はみな時代の子・環境の子である。私たちが置かれた環境によって現象する。つまり、人間は時代の子・環境の子。それは「文脈」という目には見えない「物語り」としてわたしたちひとりひとりの思考や行動を細部に至るまで縛っている。意識する物語りがすなわち、世界である。それが人間存在(=意識)の真理である。それが私たちが人間として存在するということである。私たちは関係から立ち上がる存在である。『正法眼蔵(道元著)』がいうように、縁起(関係)は実存(生きている実感)に先立つのである。

その人間存在(=意識)の構造が、私たちがふとした瞬間に感じる思いや感情を司るメカニズムである。しかし、一方、わたしたちひとりひとりに生まれた感情も、自分自身に対して環境となる。自分に現象した感情も、かえす刀で、私たち自身に影響を与える。意識した世界と個人の感情は、相互依存的に複雑に濃密に絡み合い「つながっている」。世界と自分は、意識ある限り常にすでに一体のものである。自分だけ世界から取り出すことはできない。要素還元主義は便宜的な道具ではあっても存在の真理ではない。世界は分析しても捉えられない。あなたがが世界を「意識」する限り、世界とあなたは一体である。意識の存在=世界の存在、である。

世界(=意識)は、私たちを翻弄する。意識の大きなうねり、それが世界の姿である。世界とは詰まるところ「関係から立ち上がる意識」のことである。

 

それが私たちが「空気」を感じる原理であろう。

私たちが「世界は思い通りにならない」と感じる力学の原理であろう。

目には見えない「空気」の存在。「空気」はあなたの「意識」と同じもの。

人間は「常にすでに」、「意識」という「箱の中」に囚われて生きている。

 

「箱の中」から飛び出す視座=もうひとつの意識

しかし、近代化を成し遂げた西洋世界を中心とする世界は、この「意識」を打ち破るすべを手に入れた。それがキリスト教における宗教改革という出来事である。宗教改革によって起こったプロテスタンティズムのエッセンスは、人類が「神の目」を獲得したことである。自分の「意識」を別の「意識」で眺める視座を獲得した。「素朴な意識」を「論理的な意識」が眺める術を獲得した。意識はふたつに分かれたといっていいかもしれない。世間(=「箱の中」)に縛られていると思い込んでいた私たちの意識を、「箱の外」に連れ出す視座を形成した。「空気」とは、すなわち、「In Box」の状態である。その「箱(=世間)」の「外」に出るきっかけを歴史的に初めて人類が大規模に手に入れたということになる。意識は二重化した。

「箱の外」視座は、やがて「作為の契機」として、「人間社会は人間の手で変えてもいいもの」、という「意識」に発展する。それが科学的思考に進化し、国民国家や資本主義と結びつき、巨大な世界史の潮流を形成し今日に至る。「箱の外」視座は、空気を主成分として成り立つ「世間(=素朴な意識)」を相対化した。「世間(=素朴な意識)」はやがて、人間の作為によって構造的に建てつけられる「社会(=素朴な意識を見るもうひとつの意識)」に変化する。人間集団が、自然現象的な「慣性の流れ」を超えて、「作為」という名の人為的な構造を獲得していくメカニズムである。「社会(=もうひとつの意識)」は端的に、近代革命の産物である。神が作った世界は、人間が手直し出来る世界へと「意識」されるようになった。

 

戦後日本には「箱の外」に出る契機(きっかけ)がない

「箱(=世間)の外」に出る契機(=意識を二つに割る技術)は、歴史的には「恐れるべき神の存在」がもたらした。それはキリスト教の宗教改革の結果として出現した。端的にそれはプロテスタンティズムという異端的人々の出現に依存する。

日本においてそれは、明治維新後の新政府、とりわけ伊藤博文の手によってなされることになった。キリスト教の素地のない日本人を近代化していくための、起死回生のイノベ―ションであったといえる。神の代わりに絶対的な存在として「天皇」を据えたのである。「神の目」の代わりに「天皇の目」を据えた。明治期の教育改革の眼目もこれである。明治政府はこの「天皇の目」を大日本帝国憲法に明記し、教育勅語で全国の学校教育を活用して普及していった。こうして新生日本は、40年あまり後、明治から大正に年号が変わるころ、世界でも最大限の評価を獲得するに至る。近代化は成し遂げられたかに見えた。

しかし、その視座(2つの意識)は、太平洋戦争の敗戦で再び消え去ることになる。アメリカの占領政策が直接の引き金ではあるが、原理的には「天皇の人間宣言」が最大の契機である。その後もわたしたち日本人は、「箱の外」に出る視座を、国家としては獲得できずに今に至る。それが日本社会の今日の困難の根本原理である。日本人の意識は素朴なままである。日本人は社会を変えられるとは思っていない。だから素朴に反省ばかりする。日本人が論理的な意識を持たないこと、それが社会が機能しない根本的な原因である。

 

心地よい「空気=箱の中」と、戦場としての「箱の外=近代」

それでも近代は廻る。資本の増殖運動に巻き込まれるという力学は終わらない。IT技術の進展でむしろそのスピードは上がる一方に見える。市場の原理を中心とする近代の鉄の檻は、恐竜が絶滅した時のような世界的な大災害(?)でも起きない限り、終わることはないだろう。近代の鉄の檻は、私たち人間の「素朴な意識」とは関係なく回るメカニズムとなった。

 

シンプルに述べれば、人間疎外の市場システムにアジャストしながらも、「箱の中」的な心地よさをどう獲得したらよいのか?それが人類共通の課題である。近代に新たに生まれた「もう一つの意識」で生き残るすべを考えながら、もともとある「素朴な意識」をどう労わるか。市場を放棄せずに、巻き込まれずに済む方法を考えなければならない。

「箱の外」の視座がない日本人は、鉄の檻、つまり、資本の論理を見て見ぬふりをすることで自身の心地よさを獲得しようとしているように見える。

しかし、「素朴な意識」に市場の存在は見えない。

科学的問題解決アプローチを使うものが「空気読めない奴」として敬遠されるゆえんである。しかし、これでは本当の解決策にはならない。見ないふりをしたとしても、市場は確かにそこにあるのである。そして、すべての日本人が、その恩恵に属してもいる。見ないふりは単なるタダ乗りでしかない。矛盾する「箱の外」と「箱の中」と、バランスを取る方法を考えなければならない・・・

 

近代社会は「神の目=箱の外」の視座が生む「仮説」で出来ている

「神の目(もうひとつの意識)」を集団で獲得したプロテスタント。そうして近代社会は始まった。「神の目=箱の外」の視座は、

 

「社会は人間の手で変えてもいいもの」

「未来は自分たちの手で変えられる」

「仮に〇〇が〇〇なら、こんなに改善できるのではないか?」

 

という「仮説」につながり、科学が発達していった。

未来を仮置きすること(=論理的な意識を意識すること)で思考が自由になり、人間は伝統主義の呪縛から解放されたのである。1000年続いた伝統主義を原理とする中世(箱の中の時代)が終わりを告げ、近代の扉が開かれたのは、「神の目=箱の外」の視座を獲得し未来を仮置きしたからである。

 

箱の中にいる人は、この「仮置き」して前に進む、という感覚がない。

「仮置き」とは論理的推論のことである。

ゆえに、仮説の精度を上げるための議論が軽やかに出来ない。「箱の中」にいると、他者からの意見は、自分の人格が非難されていると感じてしまう。「箱の外」の視座で見ていると、自分の仮説に対する議論は、人格と切り離されるため激しい議論の対象にすることが可能である。他者からの意見は、むしろありがたいものと感じられる。これが決定的に重要である。

「仮説」と「人格」が「箱の外」の視座で切り離されたため、無限の進化を始めたのである。

現実を二つの意識で眺めたため、市場は急速な発展を始めたのである。

 

ビジネスも、NPONGOの仕事も、学問も、すべてが仮説である。近代社会は仮説で前に進むのである。近代社会は仮説で出来ているのである。近代社会は「神の目=箱の外」の視座が生む仮説で形づくられる。近代は常に未完のプロジェクトである。近代社会は、仮説を作り・実行し、結果を検証し、再び仮説を修正することで前に進む「プロジェクト」である。前に進もう!未来を作ろう!という企てが「有効で新しい仮説」を生む原動力である。すなわち「作為」。

 

ニッポンの「空気」は「仮説」で相対化して突破する。

 

21世紀のわがニッポン。いまだ、空気(=素朴な意識)の支配で重苦しい雰囲気は健在である。いや、ますます空気を気にする人は増えているようにも見える。

でも、空気は仮説で振り払おう。有効で新しい仮説は、日本人が纏っている空気を吹き飛ばす爽やかな風である。淀みない文章で書きこまれた仮説は、私たちに明るい未来を見せてくれる。空気の存在を気にして安心・安全・便利・快適を求めるより、挑戦したくなる自分をそこには発見できるだろう。

 

前向きな自分は淀みない仮説が作る。

仮説を作る技術が、自分の明るい性格を作る技術である。

素朴な意識を塗り替える、もうひとつの意識を生む第二の誕生日を受け入れよう。

 

よき仮説は、人を若く保つ。

強力なサプリメントより、よっぽど効果的な養分となる。

仮説が未来を救う。今の停滞したこのニッポンを救うのである。